(承前)プログラム休憩後最後に演奏されたのはブラームス弦楽四重奏曲ハ短調である。いつものように一番にはとても力が入っていて、作曲家の友人で宮廷歯科医のビルロート博士はこの曲をして、最初に勉強して四手で弾いておかないとその美しさを見失うと書いている。そのように詰め込み過ぎ感の強い創作となっている。

そうなるとそしてその書式から四艇の楽器が織りなす和声もどうしても分厚くなって、まともに鳴らそうとすると太いチェロの胴音が響きと、到底瀟洒からは程遠い演奏にしかならない。それでもミュンヘン郊外のシュタルンベルク湖畔トュツィンゲンで初演されてから好評だったようで、恐らく四重奏の演奏方法やその会場の大きさなどの相違が余計に演奏を難しくしているのではないかと想像される。

それは今回演奏したベルチャ四重奏団においても決して容易な課題ではなくて、スタイルが注目されることになった。既に言及したようにアンサムブルのあり方に大きく挑戦していて、この曲においても従来ならば聞こえるか聞こえないかのような副声部の寄り添い方が尋常ではなかった。誰が聞いていてもその声部が外されることで和声に穴が開くのは分かる筈なのだが、逆にその声部をしっかりと認識できないのが通常の演奏であり、もし声部を強く押し出すと分厚くなるばかりなのである。ビルロート博士が指摘したこの曲の難しさそのものである。

その観点からの歌いこみや合わせ方、同時に一昨年前までならばどんどんと歌いこんで行った第一ヴァイオリンのベルチャの抑え方が音楽的にもツボに入っていて、第二ヴァイオリンとヴィオラとの絡みが見事で、これは彼のアルバンベルク四重奏団も出来なかった合わせ方であった。なるほどそのイントネーションがやや東欧的であり、最初のモーツァルトでも感じさせた嘗てのスメタナ四重奏団のような若干角の落ちたアーティキュレーションは気が付いた。それによって評価しない向きがあっても仕方がないと思うのだが、しかし合奏芸術として行っているその芸術価値には脱帽である。こうした行いが弦楽四重奏である所以だ。

そのような塩梅で人数の割に激しい拍手があり乍らも、もう一人の盛んな拍手が若干弱っていた様なのも、そのブラームスへの見識だったのだろう。その意味からも、この楽曲の演奏実践の難しさへの克服として、個人的には喝采を惜しむものではなかった。四重奏団のコリーナ・ベルチャなども平素はそこまで満足そうな顔は見せないのだが、こちらの拍手に成したと確信を持てたのではなかろうか。

なにもこちらもいい加減な思い込みでこうした見解を綴っているのではない。その証拠にアンコールでシマノフスキ―の弦楽四重奏曲1番ハ長調二楽章の演奏が、そこに更なる幻想的なから絡みをする曲で、例えば新ヴィーン楽派ともフランスのそれとも異なる独自な音響を示していた。まさしくショスタコーヴィッチの曲とも対にはなるのだが、シマノフスキ―においては真髄な追及であって、ショスタコーヴィッチのようなポストモダニズムにはないだろう。

いずれにしてもこの四重曲全曲を含むプログラムがあれば再び馳せ参じなければいけないと思った。見事なプログラミングと演奏で、その他の趣味の相違を完全に乗り越えていた。最後尾から惜しみない拍手を送った。(終わり)



参照:
光と影のミスティック劇 2019-06-11 | 文化一般
実況中継録音放送前 2020-10-22 | 音