承前)ベルリンでの「マゼッパ」演奏に先駆けての指揮者キリル・ペトレンコとクラスティング氏のインタヴューを観た。後半は、「マゼッパ」公演の意味を「スペードの女王」に繋ぐようになっていて、来年の復活祭への意気込みを示すことになって、我々に可能な限りのことはしようと思わせる。

それ以前にチャイコフスキーにおける表現の主体が女性に置かれていて、それが彼自身の母親と重ねられているというのも重要だと思う。勿論ここでは一切そのフロファイルの様なことは語られず、主人公マゼッパへの作曲家の投影にしても音楽的にその心情がよく伺われるとして、指揮者は音楽によって語るという範疇を逸脱していない。こうした姿勢とそれが可能な芸術家というのは本当に尊敬に値するのである ― 勿論ミュンヘンの後任音楽監督はそれをとても巧妙に言葉にして準備しておくのであるが。

序曲においても抒情的な部分において若き日のマゼッパが描かれていて、有名な裸馬に仰向けに縛られて走らされる伝説的な絵画の若い美男子そこに見るとしていて、また情景として構成されている花環を捧げる娘の歌とかの民謡的要素も実はコメントとして機能していると説明される。

そこで言及されている、上の主役マゼッパのキャラクターにしても決してその心情を疑わせない真に迫った表現であると共に、白黒をつけた劇場的な意味づけとはなっていないという事だ。即ち、狂った女をそこに見捨てるマゼッパは極悪人かと問われる?

これは、以前ショパンのファンタジーポロネーズについてロマン派のお話しとまたは後期ロマン派のフランクなどの構造についてのお話しをここに当てはめる。つまりチャイコフスキーにおいては、マーラーの交響曲の例えば「復活」に於ける様な明確なメロドラマ、つまり展開の正反対へのダイナミックスを交差して現れるような劇性ではなくて、現実の人間心理がそうであるように、なかなか解決されない不条理というものがそこで描かれるという事になる。ロシア文学なのだろう。

インタヴューをしているクラスティング氏の絶賛されている文章に戻ると、チャイコフスキーが友人らに語っていた言葉が載っている。

「苦悩の時に、幸福を回顧する以上の苦しみはない」

「マゼッパ」初演後にフィナーレを、本来のプーシキンにおけるオフィーリアの様に入水するものから、幼馴染のアンドレイが虫の息にあるときに子守歌を歌ってあげるという風に差し替えたとある。それによって、マリアはファウスト博士とグレートヒェンとの関係になって、公に出来なかった作曲家自らが求めていた成就しない救いがそこにあったとしてその文章を終えている。(続く)



参照:
忘却とは忘れる事なり 2019-05-14 | 音
交響する満載の知的芸術性 2013-04-03 | 音