昨今は元気の無いネトウヨさん達へのカンフル剤。ドレスデンの日本パレスでの展示会からの報告。展示の最後に会場から出てくるとベルリンから旅行中の少女像に遭えるというものだ。そこで入場者は声を失うという。

なぜならば、会場では、オーストラリアから今は失われた原住民の言葉の軌跡を持ち帰った宣教師の記録などと共に、自慢の陶器の展示の背後のアジア人の様子が描かれていて、それらから自分らが素晴らしいものを完成させたという構図があることが議論の対象となっている。ポストコロニアリズムが公には議論され得ないという前提がそこにあるとする。同時にドイツのナミビアでの仕業などが暗示される。

またあらゆる蛮行がアルファベット順にアルメニア、オーストラリア、ドイツ、インドネシア、ユーゴスラヴィア、朝鮮、ナミビアと挙げれらて、導入とされていて、そして外に出ると少女像という構成らしい。

先日のバーデンバーデンでの「冬の旅」の批評があった。古新聞を片づけるとどうしても時間が掛かってしまう。評者は、ロッテ・ターラー女史で、読まないでもある程度分かる。だから余計に周辺情報に興味が向かう。何も決して悪い評論家とは思わないが、結構上手く外してくれて、ラトル指揮の「トリスタン」の録音だけでもして欲しかったと語ったことに良く表れていた。

ここでは、ディドナートとピアノのネゼサガンとそして企画に関しても当然のことながら評価しているが、例えば彼女の衣裳が軽い上着の印象とかを語っていて、流石に視線が違うなと思う。まあ、我々男性でも交響曲を振っていた時のようなネゼサガンの如何にもゲイらしい服装になると気になるのである。

それと、女声による「冬の旅」の記録として、ロッテ・レーマン、1986年にメトでのルートヴィッヒ、レヴァイン、2012年ファスベンダ―、ライマンと挙げていて、こういう情報が嬉しい。こういう所もフランクフルトアルゲマイネ新聞でも買われていると思う。

そしてディドナートが試みた視点の転換は、我々がそうなり得ないものを含んでいるとしている。要するに男女の役割をフェミニズムから問うということに対してだ。それなら一体ネゼサガンはとなって、この中途半端な評によってこの企画の本当の意味を知的に理解するに至る。勿論会場に居た聴衆は二人の抱き合い方にその意味を感じていた。



参照:
Winterreise in Flip-Flops, LOTTE THALER, FAZ vom 5.7.2021
Die Mahnung ans Schicksal der „Trostfrauen“, FAZ vom 25.06.2021
金を取れるということは 2021-07-06 | 女
日本人妻たち対慰安婦たち 2017-03-16 | 女