レイフ・オヴェ・アンスネスと称するピアニストが日本でのリサイタルをキャンセルした。更に協奏曲を演奏するベルリンの放送交響楽団との協奏曲の曲目を変更した。これは3月5日に日本の招聘元から正式発表された。ピアニストが故障していて、弾けても三流のピアノしか弾けないことは2月22日の生中継で確認されていた。しかし放送局のサイトにもまた放送局の批評にも地元の新聞等にもその故障に関しては触れられていなかった。なぜか?

日本公演の曲目が変更されたモーツァルトになることは22日の放送の中で言及されていた。つまりその時点で曲目変更は決定していた。そもそも交響楽団と初共演で、更に日本公演をするのに本番無しで出かけるなどということはありえない。よって、管弦楽団の準備ものあるので少なくとも2月の中旬には曲目変更は決まっていた筈だ。調べられていないが、私が2月7日にコピーして掲示した放送計画の「モーツァルト付き」プログラムは遅くとも1月の終わりに出ているので、恐らくその時点から偽りが通っていたことになる。

さて、ここで注目したいのは、最初に日本での演奏曲に言及した放送のアナウンスである。実は私もその口調がおかしいと思った。たとえベルリン方言でもあの語尾の濁し方は放送関係者としてはありえないと思った。つまり、最後がwenn …. machen würde.で濁らしていたのだ。普通は綺麗にwird.で明快になる筈だった。その意味するところが実は分からなかった。

そして今、「ああ、あの時点でピアニストが同行するのかしないのか、まだ揉めていたな」と理解した。つまり日本でのリサイタルだけでなく、協奏曲もご破算にして、プログラム変更の可能性もあったということだ。その後の批評も放送局では批判的であっても「アンコールで聞かせたので、悪かったのは選曲違いだろう」とまた言葉を濁していた。

こうした状況を見ると、差別的に「やはり奴らは所謂オッスィーだな」となる。要するに東ドイツの官僚主義の最たるもので、放送局は嘘をつかないという最低のアリバイを作り、モーツァルトの演奏を批判した。自らの正義を守るためだ。誰かに似ていませんか?その通り日本社会そのもので、関連する音楽ジャーナリストでこの件に言及した人は何人いたのだろうか?アリバイを呟いた人はいるだろうか?恐らく知らぬ存ぜぬを通す筈だ。なにも報道だけでなく官僚組織の無謬性さえも誰も信じないから当然である。

ジャーナリズムを名乗るならば、二本電話を掛ければ済む。一本は放送局に番組担当者恐らく話していた人から言質を取り、そして交響楽団かピアニストに確認を取れば全て裏を取れたことになる。なぜ誰もそれをしないか。糊代を凌いで、ジャーナリズムとは名ばかりだからである。

ここからは推測でしかないが、地元ノルウェーでの1月末の記者会見の伝えるところによると夏には盛大に名手を読んで室内楽音楽祭を催してピアニストは自らも毎日弾くと豪語していたいう。地元は経済効果もあるのでそれで満足だが、音楽業界やその市場はそれに肖ることになる。そもそも初共演のピアニストを要求したのは日本の招聘元ではないか?年がら年中「この程度の楽団」に日本の人気演奏家ばかり宛がうのではという「専門的な市場判断」だったのだろう。それならば帯同をキャンセルということは招聘側が認めなかったことは想像可能だ。それがベルリン側の歯切れの悪さだった。そもそも新シーズン発表のヴィデオにこのピアニストの名前が入っていないではないか。

ベルリンでの共演曲目が1月中には決定していたとして、その時点で日本での公演プログラム変更が出来なかった理由は2月22日の演奏会を待って、その様子で帯同の可否まで最終判断ということはあったかもしれない。そしてあの演奏で更に危うくなった訳だが、同様に怪我をしたランランの例を見れば分かるように、三流のピアノでも大衆市場は売り込んだ名前ついてくるという専門的な見地が働いたのだろう。

宜しい、市場があってこその招聘であり、プログラム構成であるから餅は餅屋にお任せしよう。しかし放送の時点2月22日以前に日本公演での曲目変更は決定していたので、少なくともその放送直後にリサイタル中止とは別にその情報を出さなかったのは商道徳上の問題であり ― 勿論売れ残りをブラームスの協奏曲で捌こうとしたと批判されても反論できないだろう ―、だから放送局周辺もお茶を濁してアリバイ作りに躍起になったのであった。また当然のことながらユロウスキー監督がアルペン交響曲をやろうと思っても通らない世界である。尚更20分もの著作権料を新曲に誰が払うか!これが現実である。

だから、これだけは批判しておこう。そうした裏事情を上手に伝えることこそが音楽ジャーナリズムで、そこに注意を向けさせないことには何ら批判的で建設的な活動とはならない。それが出来ないような者が深遠な芸術について墨を垂らすなどおこがましい限りだ。この背後事情がただの舞台裏話だけでないことは音楽通ならば皆感じている筈だ。必要な知見を聴衆も共有しないことには芸術の需要とはならない。せめて、ベルリンの放送局がやったようなアリバイ作りに薬を盛るぐらいのことはして欲しい。知らぬ存ぜぬでは一体何を伝えようというのだろうか?宣伝媒体としての商業ジャーナリズムは認めよう、同様の市場がある限りは。しかし、そこにジャーナリストなどは存在しない。



参照:
謎多い麗女が決めるもの 2019-02-26 | 女
怒る影にある男 2019-03-05 | 雑感