「マクベス夫人」に関連して、「ショスタコーヴィッチの証言」検証のリチャード・トラースキンのエッセイを摘み読んだ。新制作のプログラムに挟まれていた小冊子である。一連の初演からの評判や批判そしてプラウダ批判を受けての、戦後の再上演、そして1970年代の「証言」を受けての初演版の再上演などについて触れてある。時制を踏まえて一連の動きを見ていくと興味深い。

今回の新制作の特徴の一つは極力グロテスクな表現を避けている演出とありのままの音楽にあると思うが、前史である原作まで遡るときに、丁度ジキル博士やフランケンシュタイン博士に相当するというが、それが所謂自然主義文学であって、そうした創作表現であるとなる。つまりロシアのアヴァンギャルドなどとは一線を隔すことになって、まさしく今回の制作の核心に触れる。

演出面においては、フェルゼンシュタインの流れを汲むハリー・クッパーのそれはイタリアのストレータス演出などに近いリアリズムの円熟した舞台であった訳だが、このオペラの本質的なところにおいてとても的を得ていたということになる。

我々の知る限り、既に米国初演のメトロポリタン歌劇場においての上演においてもポルノフォニーと評されたように曲解されていたのは間違いない。勿論ト書きなどを正確に表現するとそのようになる訳であるが、それでも音楽的に見ても違和感を覚えるのではなかろうか。

まさしく既述したような死から性への開放が一条の光のように輝くのがまさに旧制から革命へと開放される精力なのである。作曲家はその原作の革命へのエネルギーをスターリンの圧政下の中で舞台表現化しようとしたことは間違いない。それが、ポルカやヴァルツァーとして、またチグハグで「間違った音」として表現されているというのも確かであろう。そうした一連の表現方法が「証言」によって、そして亡命後のロストロポーヴィッチ夫妻の演奏実践などによって新たに曲解されたということになる。その夫妻も後年「証言」について否定的な見解を表明していたというから、亡命直後の事情をそこに感じる。

今回の新制作が何よりもそうした歴史的な靄を吹き払ってくれて、ショスタコーヴィッチ創作理解に大きな影響を与えるかもしれない。一つにはクッパーの演出こそがまさしく社会主義リアリズムのそれであり、そこには弁証法的な舞台空間が目されている。例えば日本などでは新劇とか呼ばれる舞台活動に近い、そうした劇場空間が作品として創造されていることであり、事細かな演出にそれが行き渡っている。演技指導での若い男との出会いと、その夫人の笑い顔には電光石火の一撃があり、この時点で天地がひっくり返るほどの革命と開放がなされていることを思わせる。それが結婚式での背後に立ち上る雲であって、その舞台の下では警察の官僚主義と不正のそれが描かれている - ここだけでもスターリン体制では到底許容することのできなかった舞台情景だったろう。

前述の笑いの演出について、その舞台指導風景がプログラムに詳しい。音楽的に緊張を作っている場面であるが、音楽的な内容については指揮者のキリル・ペトレンコが件のファゴットの一節はフォルテシモだと注意を促している。しかし演出的に見れば、最終幕を見ればシベリアの空に浮かぶ雷雲の一撃の萌芽をここに見ても決しておかしくはないのである。終幕の悲劇が「夜明け前」として開かれているのが「新劇」だ。(続く



参照:
楽譜が読めたならの持続力 2016-12-04 | 音
ポルノオペラは御免だ 2016-11-22 | 音