デヴィッド・ボウイが死んだ。先日、彼の音楽について大きく文化欄で扱われていたので、新アルバムでもあるかなと思っていたが、重体だったのだろう。それに比べようもないことだが、月曜日の朝刊にはベルリンのフィルハーモニーの演奏会風景写真が大きくカラーで出ている。この新聞でこれほど大きくコンサートの写真が載っているのは初めて見たので、何事かと思った。

写真を見るとお通夜のような顔をした指揮者ティーレマン率いるフィルハーモニカ―の面々だ。記事を読む前に誰が書いたのか見ると、先日ブーレーズの追悼記事を書いていた人である。フランス音楽にも造詣が深いのだろう。ごたごた騒動後の初めての登場ということで、そのフランス音楽プログラムと同時に注目されたコンサートだったのだ。そこにブーレーズの死亡が伝えられたので、演奏前に黙とうが捧げられたとある。そしてレクイエムの演奏の後にも沈黙がゆきわたったようだ。

このプログラムを見たときに一体どのような意図があるのかは分からなかった。明らかに音楽監督のラトルが振るべきフランスもので、なぜこの指揮者が態々このようなプログラムを披露しなければいけなかったのか。レパートリーが偏っていると言われるこの指揮者の反論なのだろうか?

結果は奇跡が起こる訳でもないので、当然の結果だったようである。それどころかあれ程柔軟になった筈の弦が充分についていけないとすると大きな問題であろう。最近バーンスタインのマーラーを評して「裸の男踊り」とするBLOG記事を読んだが、新聞は「苔の上を裸足で歩くかのよう」とショーソンのヴァルスの演奏を称している。そもそもこの指揮者が管弦楽団の正しいバランスを引き出せるわけがないので当然である。

それでも新聞が書くように、ロリン・マゼールがラトルに負けてその後に指揮をしなかったことに比べると ― てっきりクラウディオ・アバドに負けて臍を曲げたものと思っていた ―、今後があることでとその点は評価している。ドレスデンやヴィーンやバイロイトで指揮活動を続ける訳で、ベルリンには登場しない訳にはいかないのは当然で、あとは自然淘汰でしかない。

時代錯誤の管弦楽活動は音楽後進国に行って行えばよい。そもそも上の演奏会でも褒められる声楽の上手い合わせ方などもその多くは歌芝居における付け方が基礎になっていて、音楽的にはとても話にならないことが殆どである。音楽愛好家が歌芝居に愛想をつかすのはなにもピエール・ブーレーズが「オペラは死んだ、歌劇場を爆破せよ」と言ったイデオロギーに扇動されているからではないのである。

同じ新聞にマンハイムでの初演の記事が載っている。東京の新国立劇場の委嘱作の再演が行われたようだ。芝居の委嘱までしている言語劇場だとは知らなかった。ネットで調べてみても少なくとも今回の芝居は殆ど話題になっていない。理由は分からない。内容については、早速券を手配したので、芝居を観て、新聞記事を読んでから触れよう。音楽劇場などは、無駄に税金を支出するだけで殆どためにはならないのだが、文化的な資本である芝居が社会的な影響をもち得る限りにおいては、そこに音楽劇の存在理由も見いだせるのだ。



参照:
Als lief die Musik barfuß übers Moos, Jan Brachmann, FAZ vom 11.1.2016
ペトレンコ教授のナクソス島 2015-10-22 | 音
問われる近代の歴史 2015-09-13 | 歴史・時事
不特定要素である凡庸さ 2015-08-10 | 文化一般
ハリボ風「独逸の響き」 2015-07-27 | 文化一般
市場であるより美学の問題 2015-07-22 | マスメディア批評