サンサイと読むらしいが、そのサンツァイが中国で話題となっているらしい。いつものように、FAZにマルク・ジーモンスが現地から報告している。

ひと目見れば分かるように、中国の偽物類似ブランド特集サイトである。PumaならずPunk、Haagen-Bozs、Bucksstar Coffee、I-Eleven、Pazzah Huh、Sqny、Adidos、Adadas、KFG、Macconky、Macdonoalds、Kappo、K-Nalke、Ghanelなどなど。

新聞記事によると、そのサイトの名前が示す通り、山間に砦を築いて中央集権的な権力に対抗するのと、また自らを護る砦としての二重の意味合いがあるようだ。つまりこれらの類似品には、ある種のパロディーの意味合いも込められていて、そこに批判精神のみならず、中国人民の無制限な創造力の逞しさを示すと言う見解も紹介されている。

日本や韓国が歩んだ「習うよりも真似ろ」の経済文化プロセスは等しいが、中国は規模が違うとするのは正しいだろう。トヨタ自動車にしてもその長い企業の歴史からすれば、最近二十年ほどでやっと開発の体制が整ってきたと見るのが普通だろう。

日本のメディアなどは合衆国のやり方などを日本流に消化する事が創造的な仕事とされることからすれば、こうした中国人の肯定的を通り越した賛辞もそれほど分からないこともない。日本の企業の当事者からも、日本のターゲットとする市場に合わせた使い勝手やモディファイを何度と耳にした事だろう。

日本企業の場合はコピーする事でその原型をある意味越える商品を作り出してメードインジャパンとしたのだが、メードインチァイナはどのようなものになるのだろう。

そのような事を考えると、同じような事を中国人も口にするが、上に扱うような類似品とその評価はやはり異なる。西欧社会を含むエリートによる上からの文化の洗礼に対抗させるものとして、下からの文化としてまた民主主義の基礎と賛辞するとなると、そうした洒落や批判の精神とはやはり次元が異なる。

著作権やその隣接権などを考えると、こうした真似られる商品やブランド本来の価値が問題になる訳で、技術的な進展から中国製の携帯電話がそこの市場の三分の一を占めるようになったことなどに、大量生産消費品の「正統性自体の問題」である事に気が付く。品質やその市場に合わせた商品へのモディフィケーションとは一体何かとなる。

そうした過程を経て、原型に本来の価値がないものが淘汰されていくことは良しとするべきかもしれないが、そこから複製品の価値判断への考察が生じないことが中国三千年の歴史とは言え全く情けない。北京政府から距離の有る南中国におけるこうしたサブカルチャーの動きも日本におけるそれも似てはいるが、その差異が明白で、却って偽物を喜んで安く購入する大阪人などの特殊性が浮き彫りになる気がする。

やはりその相違は文化圏における政治社会的な構造の相違であって、そのもの世界観の相違がそこに表れているとするのが良いのだろう。



参照:
Mit Adodas zu Bucksstar Coffee, Von Mark Siemons, FAZ vom 10.01.09
山寨版 ― 
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