週末は気温が上がった。何よりも珍しく強い日差しを浴びることが出来た。しかし、突風が舞い、霧雨やはたまたあられが蒼い空から落ちてくる典型的な冬の合間であった。

陽がある内に急いで、散歩に出かけた。山沿いの葡萄地所の上辺を歩くと、薪の材料を取りに来ている農民以外にはあまり人に会わない。しかし、帰路は斜面の一つ下の道を行くと、ちらほらと人を見かける。

アイスヴァイン用の葡萄だけをを残して殺風景な葡萄畑でも、なんといっても視界が利くのが良い。これでも緑葉があると死角が多いが、今は違う。そして、当日の様に視界が遠くまで利くと、目新しい光景に出会う。

小雪舞い霜が降りる日々に挟まれて、こうして暖かく雨が激しく降ると、残されている葡萄も腐るのだろうか、場所によっては凍結の収穫を断念して急いで片付けられたような区画もある。アイスヴァインには興味のない我々でも、干し葡萄のようにぶら下げられている葡萄を見ると気になるのである。

歩きながら、言語による抽象化の可能性の限界を改めて考えていると、どうしても書き言葉から離れた方言のまた文法的に正しくない言語の、社会の抽象化の意味に思い当たる。トーマス・マン「ファウストュス博士」において熱心にその方言を示唆しているのはその意図が大いにあるようだ。前回の放送分では上バイエルン方言が扱われている。

, sagt sie (nach oberbayerischer Art assimilierte sie immer das n dem f, sodaß ein m daraus wurde),

方言ではnとfがアシミレートしてmとなることを示して、ミュンヘンの市民的な社交界から郊外の牧歌的な村に越してきた都会の女性を村の女に語らせる。鏡の前でその重い髪を結う、まるで「薔薇の騎士」の伯爵夫人の苦悩を村人から見たような言語表現には、作者マンのシュタルンベルガーゼー湖畔ニーダのサマーハウスでの実経験が活かされているようだ。ラジオ放送ではこれらが音声化されるのを期待されるが、現在まではそれほど顕著ではない。

しかし集合体としての社会そして文化を描く場合、20世紀後半の文化的な動きを知っている我々から見ると、こうした方言の使い方は、まるで摘み取り残された葡萄が雨に濡れ曝されているのを永遠に記憶にとどめるかのように、実体の抽象化と歴史上における固定において非常に優れたアイデアであったように思われる。