ラインガウのシャルタヴァインを飲んでいる。2006年産は大変酸が強く、パイナップルの皮のような独特の香味となっている。単体としての個性が強い割には、目的の食事用のワインとしての素直さが薄い。果物のような香りはそれなりに素晴らしいが、これを単体で楽しむとなると面白さが必要になる。取り付く島もない。

金曜日に、地元ダイデスハイムの石灰分が多いカルクオッフェンのグランクリュの地所を散歩した。ヘアゴットザッカーから小さな谷を越えて、その谷に落ちるほそく伸ばされたモイズヘーレの地所を十メートルほど登ると石塀の上にカルクオッフェンが広がる。その塀の上からダイデスハイムの町中には一つの斜面が落ちている。そこの横の地面の石が擦られて白く光っていた。

やはりリースリングワインの楽しみは、その特殊性を如何に客観視して味わうかに掛かっており、無難な詰まらないワインには客観を与える特殊性も無く、要するに一般化にも寄与しない。実感が薄いのである。面白味が判らなかったのは、昨日書いた記事をチェックのために読んで、あまりにも言葉足らずと思った部分である。

つまり弱起即ちアウフタクトに、ヘーゲル教授は、モーツァルトのミサ曲などを思い浮かべながら、その同じ作曲家の純器楽曲の清澄さに比べそのテキストの韻に捉えられる欠点を挙げて、音楽の韻を考えている。それは、実はギリシャ・ローマからの古典詩の韻を踏まえていて、同じようにクラッシック音楽におけるアップビート・ダウンビート並びカデンツ構造を考えている。つまり、その文学部門におけるイタリア・フランスのラテン語の歴史的優位に対しての見解でもあったのだ。ギリシャの「ムザエウスの弱起は一般的で、強起はメランコリックで夢想に溢れて沈静している」のを、ゲーテが示していると述べている*。

ここでまた閉口するのは、ヘーゲル教授の真意自体が周知のように、如何せんそうした対になったテーゼとアンチテーゼの止揚から導き出されるので、一様に絶えず反定立が用意されているのがちらつくことである。更に、この思考態度で、楽聖ベートーヴェンの特に後期の作品を眺めていくと、この同じ歳の哲学者が古典詩から導いて来た「形式への見識とその弁証法の思考態度自体」を悉く暴いて行くような反定立の卓越が存在しているのを知ることが出来る。一方、ヘーゲル教授にとって、疾風怒涛芸術はそのままロマン主義に渡されているような様子がある。

楽聖の知識や教養の程度は、ここでも評論家ヨアヒム・カイザーの弁として触れたが、シラーの美学への傾倒などに限らず、同時代人としての革新性は、たとえその直後のロマン主義に与えた影響を取り去っても、20世紀にまで活き延びた秘密でもある。
参照:
*24. August 1826