先のドイツ統一の日に演奏されたプフィッツナー作曲「ドイツ精神について」が問題となっている。保守的な作曲家プフィッツナーが1920年代に創作した大カンタータで、アイヘンドルフの詩が作曲されている。

ベルリンのフィルハーモニーで地元放送交響楽団を指揮したのはケント・ナガノの後任インゴ・メッツマッハーである。どちらかと言えば20世紀の交響音楽やオペラを得意にしている指揮者であるが、次のコンサートにもリストのプレリュードを持ってくるなど、その姿勢に疑問符が掲げられている。

ドイツユダヤ協会の批判に対して、「作曲家賛辞のためでも浄化のためではなく、討論のため」と文書により反論しているらしい。しかし、芸術的議論のためになぜこの日にこの曲を選択したのかは、帝国放送局が東欧征伐の日にファンファーレとして流したリストの曲と共に真意が疑われる。また、もしこの日に政治的議論をしようと言うならば、全く異なるプログラムが選ばれた筈である。

このような美学的な話題が続いているが、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル教授の美学の講座を受け始めた。その中で、主観と客観の問題が様々な芸術の中で議論されている。

創作における作品の創造へのプロセスにおいて、主観的な創造から形を持った客観的な創造までが捉えられる。音楽においてもリズムの定則が、繰り返しとなりそれが認知される時点で主観となり、また部分的パターンが繰り返されることで、その構築の量が示されるのみならず、シンメトリーなどの質が認知される、客観を映し出す、主観となることを語っている。

また、概念の分類から表面的な客観と本質的な主観を映し出す客観を峻別して、創造の過程で主観から客観を生み出すものが天与としている。その論を借りれば、プフィッツナーの作曲にはそれに相当する客観は存在しないように理解している。

新聞に意見を述べる二人の作曲家、ヴァルター・ツィンマーマンは、カイベルト指揮のバンベルク饗の演奏しか知らないがと前置きして、そのテキストの質と共に作曲内容を批判し、一方ディーター・シュネーベルは、プフィッツナーについては全く知らないがラジオで聴いた演奏は詩的で良かったとしている。時間の浪費のようであるが、もう一度手元にあるホルスト・シュタイン指揮のヴィーナーフィルハーモニカーの演奏を聞いてみなければいけない。


参照:
Soll man Hans Pfitzner verbrennen?,
Walter Zimmermann, Dieter Schnebel, FAZ vom 10.10.2007
ズタズタにされた光景 [ 音 ] / 2007-08-10
教義化された聖痕の治癒 [ 文化一般 ] / 2007-03-25
いいや、ト短調だよ! [ 文化一般 ] / 2007-01-28