先の新聞音楽評で、「戦後から今までザッハリッヒな第九の演奏解釈が続いた」とあった。このザッハリッヒとは、美学的な表現でもあるが、必ずしもそれに限らず哲学的な表現と考えても良いのだろう。

音と光と言語の認知学的な観察を発端として、認知論的な考察に発展した。様々な議論を呼ぶ可能性があり、様々な考え方があるのだろうが、少なくとも我々人類が、辛うじて懐き得る空間や時間のイメージからそれらを分析しても限界があるような気がするのである。

本年冒頭の話題を「肉体と精神」としたが、そうした認知科学は、その双方を一体化することでその双方に寄りかかる形となって、結局は人工知能信仰に繋がっていると思われる。

音や光がなんらかの意味を持ち、言語的に解釈されるのは、文化的な行為であり、その中に自然科学をも含めれば良いかもしれない。その文化が、過去においては地域や民族的な属性を持っていたのが、歴史を通してグローバル化から人類共通の文化となって来ていることには異論はないだろう。しかし、こうした文化の同一化が、何れは肉体と精神の統一化となって、進化論的に人類のゾンビ化が予想されている。

しかし、そうした人工知能信仰よりも、自らの認知の壁を破るような、未知との遭遇と飽く迄も抽象的な思考態度こそが発展や創造と呼ばれるものであるとするのは正しいだろう。

我々人類がなんらかの信号を外部から受ける場合、それを処理する属性があるのみで、その行程を分析するのは只の文化でしかないことを肝に銘じて措く必要があるのだ。そして、そうした人類の属性の中にも個人の属性が存在して、空間把握や時間把握のみならず、言語把握にも大きな差異があることを前提としなければいけない。言語把握の限界こそが、抽象世界への入口である。

そのように考えると、要するに人工知能信仰は、ある時はグノーシス的な思考態度に還元されて、ある時は道教的な思考態度に還元されるようである。

当然のことながら、「肉体と精神」の問題は哲学者デカルトやまたその二元論に意義を唱えたスピノザによって、ザッハリッヒな思考態度へと導かれたのも事実である。



参照:
漂白したような肌艶 [ 暦 ] / 2007-04-02
皮膚感覚のフマニタス [ 雑感 ] / 2006-11-29