裸の付き合いとか言うが、本当に裸は人と人を近づけるものなのだろうか。皮膚のコンタクトを厳禁としよう。つまり視覚とか臭覚、あるいは聴覚によって裸の人間は、どのような関係を結ぶ事が出来るのだろうか。
作品番号VBが付いた「裸の女たちのパフォーマンス」を世界中で繰り広げるロングアイランド在住のイタリア女性ベネッサ・ビークロフトは、このほど彼女のVB55をベルリンのギャラリーで催した。残念ながら、実物を鑑賞することもTVでヴィデオを観る事もなかった。しかし新聞の批評やネットでの過去の画像などで、幾らかは知る事が出来た。数多くの写真で比べると今回のベルリンでのパフォーマンスは上々の出来のようである。100人ほどの若い女性を素裸にしてパンティーストッキングだけを穿かせてマスゲームを繰り広げた様子である。地元で集めたのだろう肉体的な特徴も肩や腰が張っていたりでゲルマン女性の無骨さも他の作品と較べると格段に面白い。
オーデションの選考基準がハッキリしていて、出来得る限り同質の肉体を集めたようだ。髪の毛の色は黒、赤、ブロンドと多様で皮膚の色や身長、肥痩には差異がある。同色のストッキングを穿いているので、そこでコントラストが付けられている。批評によれば「アダムとイブのパラダイスのイチジクの葉」から「天使の聖なる羽衣」で「恵みと無垢」を、人類の着衣は「罪と偽善」を示すが、こうして公の場におけるパフォーマンスはその罪を追いやり、厚かましい共犯関係を観衆と築くと言うのである。恐らく初めは目のやりどころに困ったその観衆もゆっくりとした動きの長い時間の流れに、その視覚的な皮膚感などに新たな壁を見つけることになったのではないだろうか。バレーの肉体の動きを彫塑の静に置き換えているようなものだろう。
芝居において素裸を曝す役者の話を先月ラジオで聞いた事を思い出す。それによると、女性も男性も、そこへ至る前は、最もプライヴェートなものを全て曝してしまうような気持ちがするが、実際にスポットライトが当たり舞台に上がると寧ろ皮膚による防御を感じるようだ。勿論、舞台においてお障りが無いと言う前提だろう。
モアイ遺跡で有名なチリに最も近いポリネシアの島の住民は、今でも裸族に近いようである。島の女王の座を目指す少女の裸体は、皮膚の壁を感じさせない。彼女は腰紐をつけて飾りが描かれている限り恥じらいを感じないからだろう。モスリムの服装の対極にある。モスリムと言えば、米軍が訴追されたイラク兵を裸にして行った拷問がある。このあまりに残酷な情景が絵画として描かれている。
コロンビア出身のフェルナンド・ボテロは、この事件を聞いて怒りと驚きで居ても立ってもいられなかったと言う。そして他のメディアでは決して表せなかった方法で制作に挑んだ。1932年生まれの彼は内戦や麻薬商業などをテーマに注目されてくる。しかしそれらが芸術としても連作となることは嘗てなかったという。政治的にはアングロサクソン・プロテスタンティズムにおける肉体嫌悪と偽善を嫌味を込めて描いた。そして今この連作は、ローマの旧ムッソリーニ邸に続いてドイツで公開されている。
さて、作品VBシリーズでは、ニューヨークなどで様々な人種の混合も試され黒人の美しい肌色や質感を利用もしている。しかしこれはあくまでも西洋の裸であり、女史があげるアラキの裸とも違う。それは過去のパフォーマンスの写真を見ると尚の事理解出来る。裸の数も露出度も絶えず上向きである。既にその面では厳しい批判もあるようだ。だから初期のパフォーマンスでの効果を疑わざるを得ない。そのグロテスクでもエロティックでもないこれらの肉体は、僅かばかりのものを身に着けることによって我々が住む社会と強く結ばれる。幸いにも男性のものはユニフォームや軍服を着せており詰らないものを見ないで済む。これらは、仮面を被らせての陰毛のない裸を含めて、全てのパフォーマンスを徹底して政治的にしている。
参照:立ち入り放題のユートピア [ アウトドーア・環境 ] / 2005-04-22
作品番号VBが付いた「裸の女たちのパフォーマンス」を世界中で繰り広げるロングアイランド在住のイタリア女性ベネッサ・ビークロフトは、このほど彼女のVB55をベルリンのギャラリーで催した。残念ながら、実物を鑑賞することもTVでヴィデオを観る事もなかった。しかし新聞の批評やネットでの過去の画像などで、幾らかは知る事が出来た。数多くの写真で比べると今回のベルリンでのパフォーマンスは上々の出来のようである。100人ほどの若い女性を素裸にしてパンティーストッキングだけを穿かせてマスゲームを繰り広げた様子である。地元で集めたのだろう肉体的な特徴も肩や腰が張っていたりでゲルマン女性の無骨さも他の作品と較べると格段に面白い。
オーデションの選考基準がハッキリしていて、出来得る限り同質の肉体を集めたようだ。髪の毛の色は黒、赤、ブロンドと多様で皮膚の色や身長、肥痩には差異がある。同色のストッキングを穿いているので、そこでコントラストが付けられている。批評によれば「アダムとイブのパラダイスのイチジクの葉」から「天使の聖なる羽衣」で「恵みと無垢」を、人類の着衣は「罪と偽善」を示すが、こうして公の場におけるパフォーマンスはその罪を追いやり、厚かましい共犯関係を観衆と築くと言うのである。恐らく初めは目のやりどころに困ったその観衆もゆっくりとした動きの長い時間の流れに、その視覚的な皮膚感などに新たな壁を見つけることになったのではないだろうか。バレーの肉体の動きを彫塑の静に置き換えているようなものだろう。
芝居において素裸を曝す役者の話を先月ラジオで聞いた事を思い出す。それによると、女性も男性も、そこへ至る前は、最もプライヴェートなものを全て曝してしまうような気持ちがするが、実際にスポットライトが当たり舞台に上がると寧ろ皮膚による防御を感じるようだ。勿論、舞台においてお障りが無いと言う前提だろう。
モアイ遺跡で有名なチリに最も近いポリネシアの島の住民は、今でも裸族に近いようである。島の女王の座を目指す少女の裸体は、皮膚の壁を感じさせない。彼女は腰紐をつけて飾りが描かれている限り恥じらいを感じないからだろう。モスリムの服装の対極にある。モスリムと言えば、米軍が訴追されたイラク兵を裸にして行った拷問がある。このあまりに残酷な情景が絵画として描かれている。
コロンビア出身のフェルナンド・ボテロは、この事件を聞いて怒りと驚きで居ても立ってもいられなかったと言う。そして他のメディアでは決して表せなかった方法で制作に挑んだ。1932年生まれの彼は内戦や麻薬商業などをテーマに注目されてくる。しかしそれらが芸術としても連作となることは嘗てなかったという。政治的にはアングロサクソン・プロテスタンティズムにおける肉体嫌悪と偽善を嫌味を込めて描いた。そして今この連作は、ローマの旧ムッソリーニ邸に続いてドイツで公開されている。
さて、作品VBシリーズでは、ニューヨークなどで様々な人種の混合も試され黒人の美しい肌色や質感を利用もしている。しかしこれはあくまでも西洋の裸であり、女史があげるアラキの裸とも違う。それは過去のパフォーマンスの写真を見ると尚の事理解出来る。裸の数も露出度も絶えず上向きである。既にその面では厳しい批判もあるようだ。だから初期のパフォーマンスでの効果を疑わざるを得ない。そのグロテスクでもエロティックでもないこれらの肉体は、僅かばかりのものを身に着けることによって我々が住む社会と強く結ばれる。幸いにも男性のものはユニフォームや軍服を着せており詰らないものを見ないで済む。これらは、仮面を被らせての陰毛のない裸を含めて、全てのパフォーマンスを徹底して政治的にしている。
参照:立ち入り放題のユートピア [ アウトドーア・環境 ] / 2005-04-22