小説と小説の映画化:『ゴルゴ13』への脚本提案 | 懐かしエッセイ 輝ける時代たち(シーズンズ)

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毎週土曜日更新予定です。

今日は。
 東京港区は、区にゆかりが深い、『美少女戦士セーラームーン』のデザインマンホールを区内5か所に設置しました。今後デザインマンホールの設置場所やゆかりのスポットを記したマップや記念品等も配布するといいます。

 

もう、豊島区といい、凄いですね。


<小説と小説の映画化:『ゴルゴ13』への脚本提案 >

「マンガ原作とマンガ制作 その裏側」(リンク)のタイトルで、『ゴルゴ13』の現状について書きました。
その中で、僕は『ゴルゴ13』の脚本をブラッシュアップしてほしいと書きました。
どのようにしたらいいのでしょう?
 
 本当はマンガの事例があればいいのですが、マンガの脚本は表に出てきませんので、小説の映画化におけるケースを考えてみます。
直ぐに、頭にうかんだのは松本清張『砂の器』です。


映画『砂の器』は名作として有名で、作者の松本清張も絶賛しています。
一方その原作の松本清張『砂の器』は、社会派推理小説として傑作というわけではなく、清張作品としてはそこそこの評価らしいのです。
この違いはなんでしょうか?
また、何で読んだのか覚えていませんが、映画は原作の小説とは違うということを聞いたことがありました。
映画『砂の器』が名作たる所以を紐解いたら、そこに鍵があるのではないでしょうか?

 残念なことに、もしかしたら幸運なことに、僕は小説も映画を読んだこと、見たことがありませんでした。
小説を読み映画を観てみると、最後の元浦千代吉が生きていたことへの変更はありましたが、内容に大きく変更されているわけではありませんでした。
大きく違うのは、それぞれの作品のストーリーの進め方でした。
原作と映画の脚本を比較したいと思います。


●映画『砂の器』140分
  1974年製作。松竹株式会社・橋本プロダクション
  1974年キネマ旬報 脚本賞、ベストテン2位

  (1位は『サンダカン八番娼館・望郷)

この映画を観たことがない人もいると思いますので、予告編を見てみましょう。

  〇『砂の器』 予告篇
   https://www.youtube.com/watch?v=CPCk0LG0xFs&t=18s

 監督:野村万太郎
 脚本:橋本忍 山田洋次
 撮影:川又昻 
 音楽監督:芥川也寸志
 作曲・ピアノ演奏:菅野光亮
 演奏・特別出演:東京交響楽団 

●主な登場人物
 ・今西 栄太郎:警視庁捜査一課警部補
 ・吉村 弘:西蒲田警察署刑事課巡査
 ・和賀 英良/本浦 秀夫:天才ピアニスト兼作曲家 
 ・高木 理恵子:高級クラブ「ボヌール」のホステス(和賀の愛人)
 ・田所 佐知子:前大蔵大臣・田所重喜の令嬢。和賀と婚約予定
 ・田所 重喜:前大蔵大臣。和賀の後援者
 ・三木 謙一:元亀嵩駐在所巡査
 ・三木 彰吉:謙一の養子
 ・本浦 千代吉:秀夫の父。ハンセン病に侵されている

●映画のストーリー
 今年2024年で、50周年にあたりますので、ネタバレをお許しください。
この作品は映画の前半と後半で大きく異なります。
〇 前半:1時間27分
 夕日に染まる海で砂の器を作る少年。
 秋田県 羽後亀田駅に警視庁刑事今西と西蒲田警察署刑事吉村は着きます。
5月12日の早朝、国電蒲田操車場内で、発生した男の殺人事件(被害者 三木 謙一)の手がかりの「カメダ」を追って二人はここまで来ました。
この地で、怪しい男の話はあったが、捜査の成果はなく、東京に戻ります。
その途中の食堂車で、二人は仲間といる音楽家の和賀英良に偶然会います。

 捜査は難航し、警視庁の継続捜査になります。
吉村は、ふとしたことから、塩山駅近くで、電車の窓から紙らしきものをまく女性の話を新聞で読み、犯人のシャツを細かくした「布切れ」ではないかと考えます。

その記事を書いた記者から女性の居場所を聞き、女性が勤める高級クラブに吉村は向かいます。
西村に話を聞かれた女性は実は和賀の愛人で、スキを見て店から逃げ出します。

 ある時、捜索願を出していた、三木 謙一の息子が岡山から警視庁にきて、被害者が特定できます。
息子は今西と係長に、父親が伊勢参りに行ったこと、伊勢から帰ると手紙をくれたところで、消息不明になったと話します。
息子は、父は誰からも慕われていて、恨みを買うことは決してないと。

 今西は、国立国語研究所に、東北弁について聞きに行き、三木が駐在を務めた地方の言葉が東北弁に近いことを聞き、地図で「亀高(かめだか)」を探し出します。
今西は、亀高に向かい、嘗ての同僚たちに三木の話を聞く。
やはり、恨みを買うような人ではなかった。
三木が刑務所に送ったのは、窃盗の一人で、「こっちが根を上げるほどの強引な三木さんの励まし。これが正しと思ったらどこまでも押してくる「正義感」」で更生させている話を聞く。

また、三木と仲が良かった村人から、子連れの乞食が村に来て、 病気の父親を病院に、息子の面倒を看た話を聞く。

塩山駅近くで、紙の紙片を探していた吉村は、執念で探していた犯人の布切れを探し出す。

 和賀の女は妊娠していたことが判明し、和賀の車の中で、今度は産みたいという女に駄目だと拒否します。
夜、女は、車より逃げ出し、歩いていると、体調が悪くなり、通りかかったタクシーが近くのクリニックに連れていかれるが、母子ともに亡くなります。


 元浦が予定を急遽変更したことに目を着けた今西は今度は伊勢に向かいます。
帰郷の予定を変更して、映画館に二日続けて行った三木を不審に思い、映画館に行くと、和賀のフィアンセの父親田所議員の家族写真が館内にあり、そこに和賀が映っているのを発見。

 今西は、石川県で、本浦の戸籍をあたり、大阪まで和賀の戸籍調査に行きます。
和賀は戸籍にある父母の子どもではなく、実はこの夫婦の営む自転車屋の小さい店員だったが、空襲で戸籍が焼けたことを利用して、息子になりすましていたことをつきとめます。

愛人の死を知らない和賀は、愛人のアパートに訪れたとこを、張り込んでいた吉村に目撃されます。
アパートに着いていた和賀の指紋と被害者殺害犯人の指紋が一致します。


〇後半:約40分
 和賀が弾きぶりする「宿命」のコンサートと、警視庁での合同捜査会議の模様、元浦千代吉・英夫のお遍路装束で日本を歩き回る姿を映していきます。

 

 

 


最後に、和賀が三木を殺した動機が明らかになります。

●小説『砂の器』
 松本清張の長編推理小説です。


1960年5月17日から1961年4月20日にかけて「読売新聞」夕刊に連載されました(全337回)。
当初連載は6か月の予定でしたが、結局約10か月の作品となります。

 連載当初から、監督は野村万太郎、脚本は橋本忍で映画化が決定していました。
ただ映画化されたのは、脚本の問題やその他の諸事情により、小説が発表されてから約14年後になります。

 読売新聞の編集者・山村亀二郎の回想によれば、本作はズーズー弁・超音波・犯人および刑事の心理を3本の柱として連載が始められた、とあります。
ズーズー弁の「カメダ」は人の名前か、地名か、地名ならどこにあるのか?と東奔西走しますが、この手トリックは清張ではよく見られます。

 この小説は、清張作品としては、傑作というものではありません。
毎日ストーリーの山をつくらなくてはならない新聞小説のためもあり、、話のまとまりに少し欠けます。
なんと言っても、文学作品ではなく、社会派推理小説で、謎解きをするため、ストーリーが遅々として進まず、また出戻りしたりもします。
また、推理小説のため、超音波を発する機械などのトリックが必要となります。
このトリックが少し、現実から浮遊しているようにも思えます。

 僕はそれなりに面白く原作を読みましたが、プロの脚本家から見ると、そうではないようです。
それと、この長編小説を2時間強の「文芸」色の強い映画にするには、脚本家には一工夫も二工夫も必要でした。

●小説『砂の器』の映画化
〇小説を読んで(橋本忍の感想)「清張映画にかけつけた男たち」

 

 
 「ちっとも面白くない。」
 取り合えず、一緒に脚本を書いてくれる山田洋次シナハン(台本を書くための取材)に米子に飛行機で飛んで、出雲に鉄道で行った。
 松江に近くなった頃、「あれしんどいな」「どうやっていいかわからよ」と、とりあえず現地まで行ったけど、やっぱりだめで、保留という形にしようかと思った。
 そこで洋ちゃん(山田洋次)が居直った。(笑)「なんのためにここまで来たんですか?やらなきゃしょうがないでしょう」

〇二人のライターはこの小説をどう料理したか?
 そんな山田も一度は脚本をあきらめています。

山田 「ある日、打合せのために私は橋本さんと会い、その席で私は正直に、これはとても無理でしょうといった。
     橋本さんは「いや、この作品にはひとつだけいいところがある。それは、ここなんじゃないかと俺は思う。」といって、彼が赤鉛筆で線をひっぱったところを指さした。
     「福井県の田舎を去ってからどうやってこの親子二人が島根県までたどり着いたかは、この親子二人にしかわからない」と書いてあるところ。(『映画を作る』)

 橋本が赤線を引いた文書を原作から探してみる。
 「本浦千代吉は、発病以降、流浪の旅をつづけておりましたが、おそらく、これは自己の業病をなおすために、信仰をかねて遍路姿で放浪していたことと考えられます。
  本浦千代吉は、昭和13年に、当時7歳であった長男秀夫を連れ、島根県仁多郡仁田町字亀嵩付近に到着したのでありました」 231

 橋本は清張がサラリと記した父子の旅というたった数行に着目し、他の要素をすべて切り捨てて、そのモチーフを拡大していったのだ。
  長編をシナリオ化する時のコツが、まさにこれである。
つまり『張込み』を初めとして、『影の車』『鬼畜』『疑惑』『黒い画集・あるサラリーマンの証言』などの名画と称される清張作品は、すべて短編小説である。
  短編を映画化した時の方が、いい作品にあがる確率が高い。
それは短編の方が、まだシナリオ・ライターや監督のイメージを加える余裕が残っており、原作を素材として、テーマを増幅、拡大できる可能性を秘めているからだ。

●それで二人は脚本をどう書き上げたか
 〇父子の旅
  橋本は清張がサラリと記した父子の旅というたった数行に着目し、他の要素をすべて切り捨てて、そのモチーフを拡大していきました。
  二人の旅を約10分間映像化を見てみましょう。

   〇映画「砂の器」10分間の原作には無い名シーン


   https://www.youtube.com/watch?v=Im23clGj8-I

  これを後半部分に持ってきます。
  父子の旅だけではく、合同捜査会議、交響曲「宿命」を重ねます。

  『清張映画にかけつけた男たち』で映画・音楽評論家の 西村雄一郎は書きます。
   映画は後半になって、一気にテンポが速まり、ラストに向かって、観客を怒濤のような感動に巻き込んでいく。
 その圧巻の後半の40分は、二人の刑事がすべてを明らかにする捜査会議と作曲家・和賀英良の新作発表会の演奏会と、彼の過去を描く父子の旅の三つのシーケンスが交錯していく。
 コンサートで奏される新作交響曲「宿命」の音楽に乗って、犯人の過去が綿々と語られる。
 
   〇「宿命」映画版1[M-2-1A+M-2-1B]

 


     https://www.youtube.com/watch?v=bOsoIqtQ3RM


 〇和賀を前衛音楽家からピアノ・指揮をする現代音楽家へ変更
  和賀は小説では電子音楽を奏でる前衛音楽家ですが、映画ではピアノ協奏曲を作曲・演奏するオーソドックスな現代音楽家に変更しています。
  この二人の父子の旅には、やはり電子音楽ではなく、ピアノなどの人の心に響くオーソドックスな音が必要です。
  
  小説は冒頭にかきましたように、超音波での殺人トリックが前提でした。
  そのため、前衛音楽家ではなくてはなりませんでした。
  それと、60年代は前衛音楽が隆盛の頃で、トリックの小道具としてこの小説に登場させたのではないでしょうか。

 〇登場人物を減らす
  少し込み入ったストーリーをより単純にしています。
  そのために、登場人物を極力減らしています。
  ①「ヌーボー・グループ」と関川
 小説では、「ヌーボー・グループ」の関川があたかも最初の鎌田駅の犯人のようかにも書いていますが、映画では「ヌーボー・グループ」らしきものは登場しますが、一人一人は説明していません。
 和賀の音楽評を新聞などには、出しているので、小説を読んだ人には関川とわかります。

  ②関川の恋人「成瀬 リエ子」と劇団員「宮田 邦郎」

関川が実名では登場しないので、小説では、関川の恋人劇団事務員「成瀬 リエ子」と劇団員「宮田 邦郎」、バアの情婦「三浦 恵美子」も登場しません。
  愛人「三浦 恵美子」の役割は高級クラブ「ボヌール」のホステス(和賀の愛人)として高木恵理子が担います。
  フィアンセが和賀にはいるので、こちらの方が、子どもを産めない緊迫感がありませんか。

 〇和賀の殺人の動機の強化
  小説では、千代吉は死んでいますが、映画では本浦 千代吉を生きていることに変更しています。

  原作では、捜査会議で説明します。
 「ここにおいて、同人は自己の将来のために、あるいは自己の地位の防衛のために、三木謙一の殺害を思い立ったのでございます。」

  なぜ和賀が三木を殺さなくてはならないかの動機が、小説の三木の口止めでは、理由が弱いので、生きていることにしたといいます。
  

 三木の同僚の話として、三木が刑務所に送ったのは、窃盗の一人で、「こっちが根を上げるほどの強引な三木さんの励まし。これが正しと思ったらどこまでも押してくる「正義感」」で更生させている」と性格を説明させています。


  橋本は、これを 三木が余命いくばくもない父親にあうことを強要したために、和賀は三木を殺すことに変更しています。
   
  僕は、「『ゴルゴ13』2」で、現在の『ゴルゴ13』の脚本が弱いと指摘しました。
 さいとう たかをが存命の時は、脚本家橋本忍と山田洋次のように、出てくる脚本案に対して、変更を突き付けていたのだと思います。
 それが、現在の『ゴルゴ13』の制作過程では感じられらず、脚本家からでてきた本をそのまま劇画にしているように感じたので、そのように指摘しました。

 さいとうプロには頑張って欲しいものです。