今日は。
東京2020オリンピックが連日熱い戦いを繰り広げています。
女子ボクシングの入江聖奈選手が日本女子初めての金メダルを獲得しました。
その入江選手は自宅に会ったマンガ『がんばれ元気』(リンク)を読んで小学2年生から、ボクシングを始めたことが話題になっています。
『キャプテン翼』(リンク)でサッカーを始めた選手、『アタックNo1』(リンク)でバレーボールを始めた選手は聞いたことがありますが、『がんばれ元気』(リンク)は初めてです。
ここでも、マンガが子供たちの拠り所になっているなーと感じました。
さて、今回のテーマは手塚治虫です。
僕の精神の根本にあるマンガ家です。
<「トキワ荘と手塚治虫
ージャングル大帝の頃ー」Part1>
●プロローグ
僕の今の目標として、トキワ荘ミュージアムの企画を通じて、手塚治虫を中心にトキワ荘のマンガ家を再訪(再読)したいと考えています。
手塚治虫や石森章太郎・藤子不二雄・赤塚不二夫を知っているようで、知らないと最近痛感しています。
特に初期の作品は自分が幼かったため、読んでいないことに気が付きました。
なんせ僕が生まれる前から作品を発表しているのですから。
ということで、7月下旬に、「トキワ荘ミュージアムの「寺田ヒロオ展」(リンク)の次の特別企画である「トキワ荘と手塚治虫とージャングル大帝の頃ー」を見に行きました。
2階に再現された部屋を詳しく見なかったのに、約3時間の見学となりました。
今回はこの企画展(企画制作 手塚プロダクション)をご紹介したいと思います。
この企画展を見る迄、 『ジャングル大帝』の原稿中心に展示が展開されていると考えていました。
そのため、いい機会なので、手塚治虫文庫の『ジャングル大帝』1・2を読み返してからトキワ荘ミュージアムに向かいました。
(西武線「椎名町駅」でレオとライヤが迎えてくれます。)
実際は、『ジャングル大帝』の原稿は数枚で、トキワ荘に手塚が移り住む前、移り住んだ頃、その後に発表した作品が主でした。
今回の企画は、大きく二つのパートからなっています。
一つは、上に書きましたように、『ジャングル大帝』を前後を中心にした、展示。(「ージャングル大帝の頃ー」)
もう一つは、通常はトキワ荘関連の作品本を展示している「マンガラウンジ」に特別企画として「月刊誌『少年』別冊付録『鉄腕アトム』&土田征三氏コレクション別冊付録大特集」。
今回はPart1として、「ージャングル大帝の頃ー」をご紹介したいと思います。
●展示「トキワ荘と手塚治虫と
ージャングル大帝の頃ー」
この企画展は、「第一章 トキワ荘前夜」「第二章 トキワ荘前史」 「第三章 トキワ荘を離れて」からできていました。
本当は僕自身の言葉で、作品の内容をご紹介しないといけないのですが、勉強不足のために、ご興味ある方は、手塚治虫の公式ページをご利用ください。
(あいうえお順になっています)
Ⅰ.第一章 トキワ荘前夜~宝塚から東京へ~
展示されているのは、 トキワ荘に入居する前に書かれた作品です。
生原稿中心に展示されていました。
原稿は、書かれている紙質が悪いのか、古いために変化しているかわかりませんが、生原稿なのに雑誌のようでした。
確か、手塚はその後はケント紙を使っているはずですが・・・、紙の当時の状況が伺えます。
また、原稿サイズが小さいのが特色だと感じました。
展示された生原稿は、写真撮影ができないので、ご紹介できないのが残念です。
また、この頃の作品はほとんど読んでいません。
1.『マアチャンの日記帳』 4回・6回・22回 複製原画
「小国民新聞」大阪版現在の「毎日小学生新聞」に掲載 1946年1月4日~3月31日
大阪大学入学半年後1946年(17歳)の4コマ漫画作品。
2.『AチャンB子チャンの探検記』複製原画
「小国民新聞」1946年7月20日~10月20日 連載
4コマ漫画の形態ですが、1話完結ではないのが特徴。
3.赤本
この頃、多い年で14冊 1.5万枚の原稿を書いたそうです。
当時、まだ医学部の学生で、アシスタントもいないはずです。
驚異的な枚数ですね。
「赤本」については、松本零士(リンク)や矢口高雄の「(手塚の)双子の弟」事件等色々他の所で聞いています。
でもあまりに勉強不足のため、勉強の上、別途稿を建てて、書きたいと思います。
4.宝塚歌劇団機関紙
機関紙「寳塚(宝塚)ふあん」(1946年8月号・9月号)に漫画・カットを投稿しています。
宝塚ファンの手塚らしいですね。
宝塚歌劇団の「近代宝塚歴史紀行」にその作品が掲載されています。
http://wilkinson-tansan.com/archives/8153074.html
5.漫画雑誌 5冊
メモを取っていなかったのですが、「漫画少年」の『ジャングル大帝』原稿と雑誌「ジャングル大帝」?
6.『1千年後の世界』単行本 直筆原稿
1948年8月20日 東光堂発行
7.『タイガー博士』直筆原稿
雑誌「漫画と読物」1950年4月号~12月号連載
初めての雑誌掲載だそうです。
最初に雑誌での連載開始は東京に出てきた「漫画少年」で『ジャングル大帝』が最初だと理解していたが、実はこの作品でした。
8.『アトム大使』直筆原稿
雑誌「少年」 1951年3月号~1952年4月号掲載
〇手塚の掲載媒体の比較がありました。
1951年 赤本5 雑誌 8
1952年 1 10
この時期に手塚は、赤本中心の作家活動から、雑誌主体の作家活動に変化し始めています。
ここでは、紹介がありませんでしたが、赤本界とマンガ界の動きを調べたいと思います。
Ⅱ.第二章 トキワ荘前史~トキワ荘の手塚治虫~
手塚治虫はトキワ荘に入居する前に、東京・四谷の八百屋2階に住んでいました。
手塚がトキワ荘に移り住んでいたのは、1953年1月~1954年10月。
ですので、トキワ荘の実質の中心人物の寺田ヒロオの入居するが1953年(昭和28)年12月の前です。
そこで、手塚自身が「トキワ荘前史」と呼んでいます。
この部屋4畳半だったといいます。
「トキワ荘」の入居は、伝説の編集者で「漫画少年」編集長加藤宏泰の紹介といいます。
この「トキワ荘前史」に時代の原稿が展示されていました。
手塚が東京に拠点を構えるにあたって、かなり苦労もあったと、別の本で読んだことがあります。
この展示会では、そのことについては触れていませんでした。
これも別の機会を見つけて書きたいと思います。
9.『ジャングル大帝』直筆原稿
「漫画少年」連載 1950年11月号~1954年4月号
僕の認識と違い、手塚はトキワ荘に入居する前に、この作品の連載を開始していたのですね。
以前「トキワ荘通い組」の一人、永田竹丸(リンク)がこの頃の手塚について語っています。(リンク)
10.『サボテン君』 直筆原稿
「少年画報」1951年4月号~1953年3月号連載 1953年12月号~1954年12月号
この作品、名前だけは知っていましたが、内容は全知りませんでした。
割と長期に雑誌連載されているんですね。
11.『冒険狂時代』 直筆原稿
「冒険王」 1951年12月号1953年8月号連載
この作品は、名前さえも初めて聞きました。
12.『ピピちゃん』直筆原稿
「おもしろブック」1951年12月号~1953年5月号
この作品も、名前さえも初めて聞きました。
13.『ぼくのそんごくう』 直筆原稿
「冒険王」1952年2月号~1959年3月号 連載
これも、かなり長期の連載ですね。
正直この原稿をみて「うまい!」と僕は唸りました。
確か虫プロ制作のアニメ『悟空の大冒険』の原作になっていると記憶しています。
14.『漫画教室』 第二回 直筆原稿 「漫画少年」1952年4月号~1954年5月号 連載
原稿サイズが小さいと感じましたが、『漫画大学』と混同していました。
15.『鉄腕アトム』 直筆原稿
「少年」1952年4月から1968年 連載
(公式レジュメでは1953年5月号~1953年11月号連載になっていますが、明らかに誤植だと思います)
この作品については、もう説明はいらないと思います。
『鉄腕アトム』も僕が生まれす前に連載開始されたのを改めて、認識しました。
いつも、僕の隣にいた兄弟のような作品です。
16.『ロック冒険記』 直筆原稿
「少年クラブ」1952年7月号~1954年4月号)
僕が生まれる前の作品。
なぜか少年時代、僕はこの作品の「コダマプレス」発行の新書サイズの本2冊(第一部・第二部)を愛読していました。
この時代としては、『鉄腕アトム』とこの『ロック冒険記』が僕のお気にいりでした。
17.『リボンの騎士』 直筆原稿
「少女クラブ」1953年1月号~1956年1月号連載。
(これも公式レジュメでは、「少年クラブ」となっていて、誤植だと思います。)
手塚曰く、「日本初の少女ストーリーマンガ」
〇常設「漫画ラウンジ」
常設ラウンジに「リボンの騎士」の絵が展示されています。
1982年12月1日トキワ荘解体時に手塚が天井の板を5・6枚はがして持って行こうとしたそうです。
その時に「5舎会?(手塚番記者)から絵を描くよう所望され、「サファイア」を描いたといいます。
そこに自画像を追加しています。
手塚曰く、この部屋で「リボンの騎士」を書いたと。
あまりに長くなりました。
第二章の途中ですが、以降はPart2で書きたいと思います。