今日は。
3月26日(金)からプロ野球の2021シーズンが開幕しました。
今シーズンから田中マー君が復帰した楽天ですが、開幕投手は涌井秀章だったのですね。
注目の田中は27日に第2戦の先発を予定が、25日にふくらはぎ付近に軽い張りを訴え、登板を回避だといいます。少し心配ですね。
ブログですが、今回は、Kaitoの「銀河英雄伝説 Part2」を挟んでの、「寺田ヒロオ展 Part3」です。
前回の「寺田ヒロオ展 Part2」では「02寺田ヒロオの野球マンガ」までお届けしました。今回は続きの「03寺田ヒロオの理想のマンガ」
からです。
「寺田ヒロオ展」は明日3月28日(日)までです。是非足を運んでいただければと思います。
<寺田ヒロオ展 Part3>
03寺田ヒロオの理想のマンガ
○「背番号0』の原稿
注:原稿は展示会で、トキワ荘周辺のスポットにあったものを撮影しています。(展示会では撮影しておりません)。以降の原稿も同じです。
○『スポーツマン金太郎』の原稿。
金太郎と桃太郎の純粋さについて、取り上げていました。
本当はここの部分だけ、漫画を掲載したいのですが・・・。
こんなシーンです。
三塁に駆け込む金太郎。
三塁塁審は三塁手桃太郎の落球に気がつかず「アウト」の判定。
金太郎が猛烈に抗議すると、自らの落球について審判に告白する桃太郎。
プロの世界だから、桃太郎は黙っているという選択もあったのに、正直に話をします。
(塁審はバツがわるいのだが。)
ここにも純粋な性格の寺田ヒロオの野球そして人生に対して「正直」「純粋」であろうとする姿が読み取れます。
そしてそれは寺田の「理想のマンガ」に繋がります。
04寺田ヒロオのマンガ教室
「良質なマンガを子供たちに届けるためには良質なマンガ家を育てる必要がある。」と寺田は考えます。
「漫画少年」の精神を引き継いでいるのですね。
○『ノンキ先生まんが教室』原稿
(「少年画報」66年5月号~12月号)
○『ノンキ先生まんがノート』原稿
(「少年サンデー」68年15号~22号)
ここに登場する「日本少年」編集長が言います。
「まんが家や編集者は児童文化を商う商人だ。
「文化とは理想に近づく努力だ。」
「おとながこどものために、よいと信じる方向に指導する。それが児童文化さ」
05寺田ヒロオのマンガ人生
○『おんぼろ地蔵物語』 (「漫画少年」54年12月号)
○『白黒物語』原稿(「漫画少年」55年4月号~10月号)
(展示会の原稿の撮影ではありません。
○原稿(週刊マーガレット」64年9月号~65年3月号)
○『暗闇五段』原稿(「少年サンデー」63年46号~64年31号)
○『ノンキ先生まんがノート』
原稿(「少年サンデー」68年15号~22号)
○『ロボット兄弟』(「小学4年生 64年9月号~65年3月号)
○まんが家をやめてはいない
「毎日新聞 夕刊 新聞社インタビュー「断筆について」87年2月2日「大ブームの漫画を考える」
「私は今でも漫画をやめたつもりはないし、本当に描きたいものを載せてくれるとこころがあったら描きますよ。(中略)
「(昭和)40年代の初めで、社会全体が大きいことはいいことだ、儲けることが第一というわけで漫画雑誌?もうらんかな、ますますどぎつく刺激的になる。
それで私は週刊誌の仕事を休みにした。しかし月刊誌は続けていましたし、決して漫画家をやめたわけではないのです。
寺田は、こうして、週刊・月刊の連載だけで11本を抱えていたこともあるにかかわらず、漫画界から離れ、隠遁してしまいました。
ここら辺は「スポーツマン金太郎:野球マンガのバイブル?PART2」(リンク)で以前書きました。
06 寺田ヒロオ展ー外伝
●「さいとうたかを」は寺田から抗議を受けていた
寺田がまんが家を「断筆」した原因となった「どぎつく刺激的な」作品は何だったのでしょうか?
この展示では紹介されていませんでした。
最近「さいとうたかを」のあるインタビューをネットで発見しました。
「藤子不二雄A監修 まんが道大解剖」に書いてあるというのです。
寺田ヒロオはさいとうたかをに手紙を書いていたのです。
マンガをやめなさい。と
あわてて、本箱に入れてあって未読の「藤子不二雄A監修 まんが道大解剖」を探しました。
ありました。
巻末の「さいとうたかを」のインタビューに。
「(寺田ヒロオさんに)会ったことはないんですけど、あの人にはビックリさせられたことがあったんです。
20半ば頃ですかね、突然手紙が来ましてね、そういう低俗なものを描くなって。
もう延々と説教が書いてありましてた。
5枚ぐらいの便箋で、ほいで後で自分の本を送ってきました。」
ただ、このインタビューで、手紙の詳しい内容や、さいとうたかをのどの作品についてかは紹介ていませんでした。
寺田は、特にさいとうたかをのどの作品にケチをつけたのでしょうか?
少年サンデーで寺田は連載していたので、当時のさいとうたかをの「少年サンデー」の連載を「さいとうプロダクション」の「全作品リスト」で調べてみました。
『デビルキング 』 が1964年に「少年サンデー」で連載されていました。
若しくは、同じ小学館の雑誌「ボーイズライフ」(リンク)に連載された「007」でしょうか。
このどちらかの作品にかみついた可能性が高いのではないでしょうか。
ちなみに、「藤子不二雄A監修 まんが道大解剖」では、『まんが道』では『恐怖魔人ゾンビラス』の連載を切るように、編集長に詰め寄っているシーンを掲載しています。
ネットで調べましたが、この『恐怖魔人ゾンビラス』が本当にある作品か、架空の作品なのかわかりませんでした。
寺田は、映画を見ると頭が痛くなったといいます。
新漫画党の会合で、映画の話題がでるので、見に行くのですが、受け付けなかったといいます。
作品そのものもありますが、映画の手法をマンガに取り入れたさいとうさかをの手法も、寺田には合わなかったのではないでしょうか。
また、さいとうたかを 以外にも寺田から抗議を受けたマンガ家はいなかったのでしょうか?
両方について、今度調べてみます。
●エピローグ
もし手塚治虫が、トキワ荘に1年間ではなく、もっと長く住み、藤子や石森赤塚たちが同じ空間(トキワ荘)で暮らしていたらどうなったのでしょうか?
本当に歴史の「もし」の世界です。
僕は、実際トキワ荘で展開された「新漫画党」での自由な意見交換や合作が行われなかったのではないかと推測します。。
なぜなら、そこに神様「手塚治虫」がいるのですから。
神様を崇め、盲目的に生活する。
神様ではなく、面倒見のいい兄貴「寺田ヒロオ」だから、みんな悩み、自由に意見し、合作出来たのではないでしょうか?
実は神様「手塚治虫」は実は、若いマンガ家に嫉妬するという子供のような一面もありました。
有名なのは、石森との「JUN事件」(リンク)
もしかしたら、自分より若い石森や藤子たちと本気で切磋琢磨する、手塚が見られたかもしれません。
その結果、今まで以上の傑作を生みだしたかもしれません。
手塚にとっては、トキワ荘を出たことは、創作の考えからはマイナスだったかもしれません。
逆に若い石森達には、そんな神様らしくない手塚を見ず、神様を遠くから尊敬し、兄貴「寺田ヒロオ」のもとで伸び伸びと自由な創作ができ、よかったでしょう。
僕は寺田ヒロオと関谷ひさしと藤子・F・不二雄の三人が日本漫画界において「漫画少年」の理想を実現している「純粋漫画家」ではないかと考えています。(ちばてつやも候補ですが・・・)
これについては、今後書き進めていきたいと思います。