遺体―震災、津波の果てに/石井 光太
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 3.11、東日本大震災。震災直後、日本とは思えないような光景がテレビから映し出されていた。今でもその映像は鮮明に思い出すことができる。私はその映像を見て、ただただ驚いた。しかし、震災後1ヶ月もしないうちに私はある問題に悩まされた。自分の想像力の欠如である。テレビの番組などを通して日本は悲しみに包まれている雰囲気に満ちていることを感じた。「被災された方のことを想うと胸が痛い。」、「何も自分にできなくてもどかしい。」そんな声が何人もの人から取材のカメラに向かって発せられていた。そんな声を聴いて、最初はあんなにもたくさんの人が亡くなり被災しているのだから、そのように答えることが一種の定式じみたものに感じ、深くは考えなかった。しかし日に日に皆は絶対的確信を持って今回の地震で胸を痛め、苦しんでいるのではないかと考えるようになった。それとともに自分は共感能力が乏しいのではないかと思い始めた。この思いは悩みに進行した。地震が起こる前、私はフランス・ドゥ・ヴァールの『共感の時代へ』という本を読んでいたため余計にそのように感じたのかもしれない。これからの時代の共感能力の重要性を感じていたのにもかかわらず、である。この悩みを友人たちにぶつけてみたこともある。けれどもその友人たちから返ってくるのは、「実際に経験してみないとやっぱり感じられないんじゃない?」という言葉であった。経験しないと共感できないのでは人と人とのつながりは軽薄になると思っていたために(つまり、人の話を聞いたりしても共感はできない、同じ経験をしなければ共感はできないということになってしまう)、そのような返事ではどこか納得しつつも気持ちの悪い、ある意味納得したくない気持ちであった。

 すっきりとしないまま、その悩みは日を追うごとに薄くなっていった。そんなこんなで東日本大震災から1年以上経ってしまった。そんな中『絶対貧困』の著書石井光太の東日本大震災のルポルタージュ『遺体』の存在を知った。『絶対貧困』は世界の最貧民層と呼ばれる人々のもとを訪れ、場所によっては何日も生活を共にし、その姿を克明に描いた作品だ。この作品を読んで驚くべき世界の現状を知るとともに、著者の視覚的にイメージしやすい文体が印象的であり『遺体』を読むことにした。

 読み始めたら止まらなかった。そして読みながら読んでよかったと思えた作品であった。この本を読んだおかげで自分も被災された方がいかに苦しいのか想像することができた。実体験ではないが被災された方の気持ちに共感することができたのだ。この感覚は地震直後に思い描いていた答えにぴったりであった。これで想像力の欠如という悩みに関してはひと段落ついた。ここから「共感」という視点から『遺体』を掘り起こしてみたいと思う。

 この『遺体』を読むと、つらい・痛いという気持ちになる反面、温かく優しい気持ちにもなる。他人であってもそれが生きるか死ぬかの状況にある場合には、自分のことのようにあるいは自分の家族のことのように受け止めることができる。つまり共感である。その人間関係の在り方が被災後の釜石市(おそらくほかの被災地も)を動かし続けたのだろうと感じた。このことから、人間は①自己生存が危うくなるとき、その状況を共にしている人と共感しあうことができる②自己の生存が危うくなくても、他者の生存が危ういときそのことをリアリティを持って知りえた場合、その人に共感できる、と考えることができる。ある意味確実に共感しあう関係になるにはここまでラインを下げなければならないのではないかと考える。震災前からネット社会の普及などによって人間関係の希薄化は露わになっていたが、震災後被災地を救っていた人間関係の形はそれとは対極をなすものであった。つまり、被災地で苦難を共にすることでできてきた人と人とのかかわり方が、今後の日本が進むべき道のヒントになっているのではないか。「共感」をベースにしたものの見方。

 うーん、こっからが難しいなあ・・・