Nさんのお話を  -カーターさん篇-
 
 その日、中学から修理を依頼されていたトロンボーンを納めに行っていたNさんは、夕暮れ迫る頃お店の入り口前に、思わぬモノを見つけてふと歩を止めた。
 店の前の暗がりに何か大きな岩のようなものが3つ置かれているように見えたのである。頭を前にぐっと伸ばすようにして目を凝らしていると、その岩がこちらを向いた気がした。そこには何か白く光るものが二つあるのを見てそれが瞳であると認識した。大きな黒人が大きな楽器ケースを抱えていた。当然のことながら、岩ではなく人であった。少しして、その陰から小柄な人がひょいと出てきて挨拶した。
「Nさん。はじめまして。私は通訳の○○と申します。本日はカーターさんのウッドベースを直して頂きたくて参りました。」
 ははぁ、そういうことだったか、とNさん。二人をお店の中へ招き入れた。光の中で改めてみると、見上げるように大きな男である。しかしその目は優しげで誠実な雰囲気だ。皺のないグレイのブレザーをぴっと着込んだ見るからに紳士である。しかしその目が今は少し不安で揺れて見える。その目つきのまま、カーター氏は英語で何かを訴え始めた。
「カーターさんがおっしゃるには、ベースの響きがおかしい、ということなのです。」
と即座に通訳氏。Nさんは早速「見せて御覧。」と手招きしてみせた。
 ソフトケースから取り出された使い込まれたウッドベースが黒光りしている。
「弾いてご覧なさい。」
 Nさんはカーター氏にベースを弾くそぶりをして見せた。カーター氏は手早くチューニングし、スケールの一部を弾きはじめ、そして、首を傾げる。一音一音確かめるように音を鳴らし、そしてその都度首を振って何かを喋り出し、訴える目をNさんへと向けた。しかしNさんはこの音を聴いて直感する。
「これは“たまばしら”だな。」と。

「タマバシラ?」
私が尋ねる。初めて聞く言葉だった。
「そう、“たまばしら”。魂の柱と書いて“魂柱”。コントラバスもそうだけれど、バイオリンなどのボディの中に挟んで響きや音色を調節するもので、ちょっとずれても音響がぜんぜん変わってしまうというデリケートな部品なんだね。それがおそらく何らかの事情でズレてしまったんだね。」

 そこでNさん。カーター氏ににやりと笑って「オーケーオーケー」と言って見せた。  そして特殊な道具を使って、いわゆる“F孔 ”といわれる細い穴から位置調整をする。長年の勘で魂柱のあるべき位置は把握している。あとは微妙な調整だけ。それをNさんは慣れた手付きで黙々とこなしてゆく。
 そんな姿を見てカーター氏はどんどん落ち着きを見せ、しまいには通訳氏と冗談交じりの会話をする余裕も見せた。そして、暫くして、作業は終了した。
「また弾いてご覧。」
とNさんは直接カーター氏に語り掛ける。カーター氏は即座に弾きはじめ「オー!」と声を上げる。
「ザッツ・グッド。パーフェクト。」
とロンは言ったね。
Nさんは得意そうに語った。
「え?、ロン??彼の名前はカーター氏だったよね。ということは、ロン・カーター‼??」
私は思わず問い返した。
$旧聞逍遙「そう、ロン・カーターさん。彼がその時ロンと呼んでくれ、Nサン。と言ったんだ。」
 ええ~、その岩のようにでかかった黒人はロン・カーターだったんだ。びっくりだぁ。すごいよ、Nさんは。しかもNさん、ロン・カーターがどういう人か、あんまりわかっていないみたいだし。
 「で、Nさん、今回こそは修理代金もらったんでしょうね?」
 自分は訊いてみた。しかしNさん、きっと私を見据えて、
「部品を交換した訳でもない。どこかを修理した訳でもないのに、代金なんかいただける訳ないでしょう。ただそこにあった部品をずらしただけなんだから。こんなことでお金貰っちゃあ、楽器屋として申し訳ないでしょうが。」
Nさんはちょっと語気を荒らげて語った。
「ええ~っ、またぁ?。でも、カーターさん、そのまま帰ったんですか?」
$旧聞逍遙「いいや、大分長い間、いろんなこと喋っていた。通訳によると、いくらでも払う。あなたは私の楽器を直したのだから、その代価を受け取る権利がある。私はその代価はいくらでも支払う用意があるんだ。とかなんとか、言ってたそうだけど、断ったんだ。先ほどの理由を通訳してもらってね。それで、ロンは、納得はできないけれど、あなたがそう言うのなら仕方がない。と言ったんだ。そして、抱かさせてくれといって抱き付いて来たんだ(注:ハグのこと)。あんまり慣れていないからびっくりしたね。そして、通訳氏に言って色紙を買って来させたんだ。その色紙がコレ。」
 といって、道具類がたくさん入った引き出しの奥からがさがさと取り出して見せたのがロン・カーターの直筆サイン色紙。道具の錆や手垢でこれも薄汚れている。
「Nさぁ~ん、これも額装したほうが・・・」
 そんな私の声には一切反応なく、
「そのあとにね、アメリカから彼のサイン入りLPも送って来たんだ。あれは、 どこにやったかな。4~5年前までは、確かあそこに置いてあった筈だが・・・」
 とごそごそ探すその場所には埃まみれの道具類が転がっているばかりだった。
$旧聞逍遙