
もしかしたら賞味期限切れのモノもあるかもしれない。
だから、最新刊情報を必要としている方々はスルーしちゃってください。
先ずは、もりもと崇さんの「難波鉦異本 (なにわどらいほん)」
自分が敬愛していた杉浦日向子さんの穴を埋めてくれる作品。
とはいうものの、手塚治虫文化賞を受賞した当時はこの絵柄が気に入らず、手が伸びなかった。この表紙、暑苦し過ぎる。杉浦作品のような風流・優雅・可憐・質素な雰囲気がない。それで、読まなかった。
気分が変わったのは、古本屋で中身を見ることが出来たから。
風流さには欠けるが、江戸人の濃厚な生き様が描かれている。しかもそれが時々粋に思える。こうなったら、絵柄の難点も気にならなくなる。よく見ると、色っぽさには多少欠けるものの結構ウマい。
今では3巻の発売が待ち遠しい身分となってしまっている。

という平凡な作品と勝手に思い込んでいたのだ。
これも大きな間違いだった。「夕凪の街」でも「桜の国」でも、こうのさんは思いがけない切り口から、自分の心の中に入り込んで、真っ白な鉛の楔を打ち込んでみせた。
自分がしたことが、自分が生きていることが許せない主人公の苦しみ悲しみ。その重しがほんの少しゆるんだ時、それは訪れる。
読み進むにつれ、自分は知る。
「これは、今現在の話なのだ。」と。

この作品は最近読んだ物ではなく、10年近く暖めて来たもの。とはいっても多感なゴシック少女はとっくにご存じなのだろうけれど。
「致死量ドーリス」は内容がどうのこうの、ではなく、見て感じるアート作品なのだと思う。それは、以下の写真をご覧頂けたら瞬時にご理解いただけることだろう。お金をかけた芸術本ならともかく、普通の少女コミックをここまでするのは尋常な感覚ではない。(ブックデザインは鈴木成一デザイン室)
このアート感覚にすっかりヤラレてしまったのか、作家(?)の篠原一は『19℃のロリータ』という小説で、恥知らずにも誰の目からも明らかな「盗作」を披露している。
こんなことにも余り構わず、楠本まきさんは近年、銅版画作品も発表し、自身のアート感覚に更に磨きをかけている。
