冬の朝は布団から抜け出すのが難しい。それはもはや悪魔の誘惑に近く、並の人間に抗えるものではないだろう。もちろん、頭ではわかっているのだ。このまま、誘惑に負けてしまえばとんでもないことになるだろう、と。下手すりゃ、その人の一生を棒に振るなんてこともあるのかもしれない。とはいえ、今時分学生である僕は大した社会的立場もないわけで、このまま誘惑に負けたところで何も困ることなどないのだ。という、言い訳を自分の中で結論付け、僕は目覚ましが鳴らないように設定し再び布団の中に潜りこんだ。
「起きなさーい!」
「うおっ!?」
天から真っ逆さまに落ちるかの如く、布団を剥ぎ取られた俺は床に叩き付けられた。しかも、全開の窓から朝の冷たい風が吹き込んで寝起きの俺の目が一気に覚める。もちろんのことながら、俺が窓を開けて寝ていたわけではない。犯人はそう俺から安らぎを奪ったこの人物。肩よりやや下まで伸びた黒い髪を後ろでくくったポニーテール。にこやかな笑みとほんのり赤みがさしたほほ。片手におたま、そして首から下げたエプロン。軽く鼻歌を歌いながら俺の部屋でくるくる踊る、そう彼女こそ土万はるか。俺の母親である。
「さぁさぁ朝よ、起きなさーい♪」
「母さん、頼むから俺の部屋に勝手に入らないでくれよ!」
「おはよう、健くん」
「おはよう、母さん。じゃなくて!!」
「そんなこと言ったって、健くんといつもここで一緒に遊んでたじゃない」
「いつの話だよ!それに昔がどうこうとかじゃなくて、毎朝言ってるじゃないか。もう俺の部屋に勝手に入らないでくれって」
「だって、毎朝時間になっても起きてこないんだもの」
「だから、ほんの数分の誤差だろ?ちゃんと起きてくるから。大丈夫だって」
「でも、健くん。目覚ましが鳴っても、一回止めて鳴らないようにしてまた布団に戻っちゃったし」
「見てたのかよ」
「うん。起こさなちゃいけないから。と思って待機してたの。久々に健くんの寝顔が見れて嬉しかったな」
「やめてくれー!!」
「そんなことより、ほら」
と母さんは俺の顔を両手でつかみ、ぐいっと捻る。母のハンドクリームの香りだろうか?ほんのり甘い花の香りがふわっと広がる。と、向いた方向にはさっきとめた目覚まし時計。
「って、8時15分!?あー・・・」
「健くん、今。もう、間に合わないから遅刻してもいいやって思ったでしょ」
「そ、そんなことないよー」
「健くん、早く支度して学校に行きなさーい!!」
これが俺の日常。いや、我が家の日常なのか?日常であっては駄目なのだろうけど、大体似たような日々を送っていた。父は仕事で海外暮らしで月一回帰ってくる程度。なので、小さいころから母と息子の二人暮らしだ。母の中ではいつまでたっても、俺は子供でこれからもきっと変わらない毎日を送るのだろうと思っていた。
ある日の朝、軽い二度寝から目が覚め。違和感に気づく。我が家で二度寝はありえない。母が起こしてくれるからだ。なのに、今日は・・・。本来はこれが当たり前なのだけれど。それでも何か胸騒ぎがして俺は部屋を出てリビングへと向かう。そして、そこで冷たくなった母を見つけた。
心臓麻痺だった。冬の朝、寒い中俺のために支度をしてくれていた母は突然の症状に襲われたのだ。俺のせいでしんでしまったのかもしれない。俺は一人、霊安室の前で膝を抱えて泣いた。
あれから、数年の月日が過ぎた。俺は社会人となり遅刻のできない立場になった。だが、そんなことは関係なく、俺はあの日以来寝過ごすことはなくなった。俺がしっかりしていれば母の負担を減らせたかもしれない。そんな考えが頭をよぎって俺は母の大切さを理解し感謝し後悔した。俺は家事を一通り済ませると棚に置いてある青い管を手に取る。それは母が使っていたものと同じハンドクリーム。手に塗り込みふわっと漂う香り。俺は手を見て思う。あの日から何か変わることができたのだろうか?と。
