更新が絶賛滞ってました!😅
村上隆さんも富岡鉄斎も、書くことが
ちょっと思い浮かばなかったです。

今日は、今年3月に71歳で亡くなった
彫刻家 舟越 桂さんの20年前の特集回でした。

ゲストには、
ベストセラー小説「永遠の仔」の
作者である天童荒太さんも出てました。
舟越さんの作品が使われたあの表紙も
懐かしかったですが、当時の番組MCの
はなさんと山根さんコンビも
かなり懐かしかったです!

舟越さんの作品は、見ただけで
「あ、舟越さんの作品だ!」ってわかるほど
オリジナリティがあります。

制作する人物像にはモデルがいるので、
見た目は本人にものすごく似てるのですが、
モデルから感じとったものを舟越さんの
フィルターを通した後、さらに
素材である木のフィルターを通しているからか、
モデルそのまんまではなく、
モデルの姿形や木の質感を借りて
人の精神性を可視化したような
独特な作品になっています。

現代美術家の森村泰昌さんがモデルの
像が紹介されましたが、似てましたね!
森村さんは、
「舟越さんは、モデルを突き抜けた、
人間を超えたものを表現している」と
言っていました。


舟越さんの転機は、
トラピスト男子修道院の聖母子像を
大学院生のときに手掛けたことでした。

舟越さんは、
「マリア様はキリストを授かった奇跡に
嬉しさもあったと思うが、同時に不安も
たくさん感じたのでは?」
と考え、
「不安」であれば、マリア様だけでなく
どんな人でも抱えていることから、
修道院を訪れるさまざまな人に共感して
もらえると思い、「不安」をテーマにした
オリジナルの聖母子像を作り上げました。

天童さんはこれを
「人に寄り添う芸術」と呼んでいました。
私も天童さんと同じく、ただの美術品ではない、
民藝品や仏像に近いものを感じました。


ちょっと話が逸れますが、
舟越さんの作品だけでなく、
他の作家の木像や彫像でも人の像だと
斜視にしているものが多いです。
舟越さんが作品を外斜視にする理由として
「もともと、遠くを見ているような視線が
好きで採用していたが、
今思うと、遠くを見るという行為が
自分自身を見つめているように思えたのかも」
と語っていたのが印象的でした。

遠くを見ている視線が、
自分に一番近いはずの「自分自身」を
見ているように感じるとは、、、、
しかも多分、この逆説的な感覚って
私も含め、ほとんどの人が感じている
ことじゃないでしょうか。
「自分では、自分のことがわからない」
ことを舟越さんは直感で感じとって
作品に落とし込んでたんですね。

それがわかると、
自分探しのもつ「迷いの感覚」に対して
より説得力のある表現をするために
実在のモデルを使う必要も見えてきますが、
舟越さんはそんなことを頭で考えずに
ただ「なんか良いな」というセンスで
やっていたと思うと、
すごいとしか良いようがないですね。


最後に紹介されていた
舟越さんが初めて手掛けた裸婦像は、
「人のもつ神秘、祈りが滲み出るものになった」
とご本人が言っていたように、
私には観音様のように見えました。

天童さんは、この作品を
南米にある豊穣を祈る像に似ているとし、
人は醜いことや酷いことをする反面、
美しさや創造性をもっており、
その「美しさや創造性」を表現している
ように感じると話していましたが、
私は「許しや希望」のようなものを感じました。

天童さんの言うとおり、
人は醜いことや酷いこともする反面、
美しさや創造性ももっているのですが、
その全部をひっくるめて人なんだよ、と。
そのありのままを許して、受け入れて、
未来へ続く小さな希望を見出して
また日常を生きていくんだよ、と
言われているような気がしました。

特に、裸婦像の肩後ろに配置された手が
本当に観音様らしさを醸し出していて、
やっぱり舟越さんの作品は仏像に近いと思います。
展覧会しないかなぁ、本物を直に見たいなぁ。