ちょっと更新が開いちゃいましたが、

前放送回の続きです。



福田平八郎がマティスに感化されていた

ことは前回のブログの最後に書きましたが、

彼は形だけでなく色でも本質を表そうと

さらに進化していきます。


光を強く意識した

「青柿」や「竹」などの作品は

マティスの「帽子の女」のようです。


マティスと違うのは、

物はひとつの色だけで見えていない、と

同じモチーフをさまざまな色で描くことで

生物の多様性を表現しているところだと

思います。


もしかしたら、この頃は

「多様な本質」を表現したいと

思っていたのかもしれません。


しかしその後、「氷」「雲」のような

シンプルな形と色にこだわり、

誰もがその物に感じる共通した質感、

感覚、それを「本質」として

3次元をいかに2次元に落とし込むかに

挑んでるような作品が出てきます。


「雲」について、

千住さんや美雨さんは

「解き放たれた感じがする。」

「いろいろ削ぎ落として自由になった。」

と話していましたが、

私も、平八郎はこの絵を描きあげたことで

一旦、自分の絵への追求に区切りを

つけたのではと思えるような作品に見えました。


目に見える限りのすべてを

抽象のフィルターにかけて、

誰もが感じる目に見えない「本質」を

取り出し、解釈して、可視化した

究極の日本画。


写生を続けて写実を極めた彼にしか

描けない素敵な絵だと思うのですが、

当時、「雲」は日本画壇で問題作として

受け入れられました。


それもあってか、その後の彼の活動は

悟りを開いたような域に行ってしまいます笑

晩年はもう

「装飾だろうが写実だろうが構わない。

問題は内容だ。」

とし、

子供の絵の模写をたくさんしていたそうです。

そのせいか、形や色にあまりとらわれない

自由でのびのびした画風に変わります。

でも、写生は生涯通してずっと続けており、

画風が変わっても本質を追い求める

スタイルは変わりませんでした。


そう考えると、平八郎の絵は進化の絵ですね。

変えるところは変えて、

変えないところは変えない。

だから、時代を超えて長く愛されるし、

今見ても古く感じない。真理です。

芸術はこういうものが多いので、

忘れがちなこの真理を思い出させてくれます。