遠藤周作の「沈黙」を、ものすごく久しぶりに読みなおしました。


あまりに久しぶりすぎてストーリーをほとんど忘れていましたが、そこに描かれている隠れキリシタンが、ラテン語でお祈りをしているのですが、


その箇所を読んで、わたしの脳は突然フラッシュバックしたのです。


それは、高校生になってミッションスクールに通うようになってから、カトリック教会にまた行くようになったのですが、


その教会で、お年寄りたちと一緒にラテン語のカトリック聖歌を練習している自分の姿がよみがえったのです。


もうミサのなかではラテン語の歌は歌われておらず、ミサが始まる前に朝早く教会にやってくるお年寄りだけがラテン語の歌を歌っていました。


歌が大好きだった私は、お年寄りに混じってその聖歌を練習していたのです。


250年ものあいだ、弾圧をくぐり抜けてラテン語の歌をつないでいた隠れキリシタンの方たち、その歌そのものをその時お年寄りたちは歌っていたのだと気づきました。


ミサからラテン語の歌が消える少し前に私は生まれていたのです。


両親からの虐待を思うとき、なぜ私が、なぜあの家にと、解せない思いをずっと抱えて生きてきました。


でも、小説「沈黙」の時代から続く隠れキリシタンの繋いでくれたラテン語の歌を歌っていた自分に気づいたとき、


上手くは言えませんが、私は生まれるべき日に神様に生まれさせていただいたのだと、不思議に納得できたのです。


とてもとても貴重な経験を教会でしていたこと、その事実と同時に、


教会に行くために必要なバス賃を願うと母に罵倒されていたことさえ、あれは迫害だったのだ、隠れキリシタンの方たちと同じように私は迫害を生き抜くことを


神様に支えられてしていたのだと心から思えたのでした。


つたない説明で申し訳ありませんが、私にとってこの気付きは、心の底から安心できる大切な経験となったのでした。