気が付けば、小説に陶酔できなくなっていた。
小学生の頃、周りに二宮金次郎と揶揄されるほど、登下校の際も本を小脇に抱えていた。
食欲よりもページを捲る方が重要だった。
お陰で小学六年生になっても、体重は20kgに満たず、母を心配させた。
当時、狂ったように図書館の端から端まで読み漁った。
裸足のゲンから村上龍まで。
知らない世界を教えてくれた。
面白くて可笑しくて仕方なかった。
私の知的好奇心の深さは、きっとここに所以している。
己が知らないことは想像で組み立て、さらに深い思考で組み直す。
混沌とした思考の奥から脱するためには、語彙がパズルの部品ように必要不可欠だった。
そんなゲームを昔から楽しんできた。
そのように、傍観者の立場で飄々と生きてきた。
あたかも自らが小説のヒロインのようで、それでいて冷静な解説者であった。
最近、小説を読んでいても昔のように心を動かされないことに気が付いた。
リアルではないのだ。
小説家の先生は、表現の機微には長けていても、自信が経験した生々しさをそのまま書くことは許されていないのだろう。
はたまた、生み出す物語のほとんどが創造に過ぎないのか。
食事すらも忘れるくらい没頭して、真っ直ぐな眼差しで文学作品を読み漁った、少女時代の私が目の前にいるのなら抱きしめたい。
見てごらんなさい、本なんかより、20年後の私の人生の方がきっとドラマティックで面白いよ。
乾いた原稿の上に描かれた人生よりも、事実はずっしりとした熱量と湿気を帯びている。
校正されて紙に印刷された文字とは違い、常に変化する危うさも含んでいる。
事実は小説より奇なり。
小説に没頭するよりも、面白いことが増えたのだ。
当時の文学少女は、今の私の人生の煩雑さを、きっと喜んで面白がって、冷静に生意気に、推察してくれるに違いない。