こんにちは!
海外で自分らしく生きるための
サポート、コーチングをしている
Keikoです✨
親のあたりまえって何だろう?
いつもいつも、何でも買ってもらえた子は、親はなんでも買ってくれて当たり前になる。
いつもいつも、母親が台所でご飯を作って食卓に並べて「ごはんよ~」ってやっていると、ごはんが出ない日があると、「あれ?今日の夕飯は?」となる。
子供にとっては、親には何でも買ってもらった。
親はなんでもしてくれた。それが当たり前。
親だから当たり前のことをしただけ。
と思っている人もいるかもしれない。
そして、急に親が亡くなったり、何か事故が起きたり不測の出来事でそのあたり前が無くなると、
「当たり前」という名の贈り物に気づく。
私たちは、太陽が昇ることや空気がそこにあることを疑わない。それと同じように、親が子供の手を引くことを「当然の義務」として片付けてしまいがちである。
義務教育の期間、強いては成人するまでは親には義務があるのだろう。
しかし、少し立ち止まって考えてみると、この世に「誰かが誰かのために時間とエネルギーを割く」という行為は当然ではない。
助けは「特権」であり「負債」ではない
「助けてもらって当たり前」という思考は、依存を生み、助けを当然の権利だと勘違いすると、助けてもらえない時に不満や怒りが湧く。
しかし、本来助けとは**「幸運なボーナス」**のようなものであり、この視点を持つことで、初めて「助けてもらった」という事実に対して、他者への敬意と感謝が生まれてくる。
自立への第一歩
親の助けを「当たり前」から「特別なサポート」へと認識を変えることは、子供自身の成長に不可欠で「自分は助けてもらわなければならない弱い存在」から、「自らの足で立ち、必要な時だけ手を借りる独立した個人」へと脱皮するプロセスだからだ。親を便利な道具としてではなく、対等な人間として尊重することで、本当の意味での自立が始まる。
親だから助けて当たり前と思っている成人した子供は、自立ができていないということ。
自立した子供ならどうするか、を自分は親としてわかっているかを問い直してみてほしい。
我が子を依存状態の子供のままにしておきたいのなら、助けないと何もできない弱い存在として扱えばよい。
「親なんだから助けて当たり前」という言葉は、相手の愛情を「義務」という檻に閉じ込める言葉。その檻を壊し、差し出された手を「当たり前ではない、貴重なギフト」として受け取ることができたとき、親子関係は依存から深い信頼へと進化するのではないだろうか。
また、「これだけしてやったのだから、親の思う通りにしろ。」という子育てを盾に条件付きの愛情で育て、期待という見返りを求める親からは、自立すれば逃げられる。
子供だから服従しろ、という困った親も世の中にはたくさんいるのだ。
子供が生まれたての時や幼少期で必死で命を守り育てる時と、成人した後では、その母性や父性も成長している必要があるのだ。
闇雲に守り与え続けると子供はひ弱になる。自分では何もできないと本能的に知っている、不安を抱えた子供になる。
手を出したいところをぐっと抑えて待ってあげて、やらせてあげて失敗したら痛みとともに、学ばせる。そんな見守る姿勢も母性や父性の成長といえる。
どちらの立場においても「自己犠牲」は義務ではない。
親も一人の人間で彼らには自分の人生があり、夢があり、休息が必要なのだ。子供を助けるために費やされる時間やお金、そして心のエネルギーは、本来なら自分自身のために使えたはずのものでそれを子供に差し出すのは、義務感からくる「作業」ではなく、多くは**「選択」による愛情**である。選択肢がある中で、あえて助けることを選んでくれている事実に目を向ける必要がある。中には世間体などという人もいるかもしれないが。
親を助ける義務などというのも本来はなく、それを選択した意図、意思があるのだということ。そしてそれは愛情なのかもしれない。
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