perorism(ぺろりずむ)

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たべたものと排泄したもののおぼえがきをするところ

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今日は楽しみにしていたヤン・ファーブルの舞台関西初公演
「Another Sleepy Dusty Delta Day~またもけだるい灰色のデルタ・デイ」
を伊丹アイホールに見に行ってきました。
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題は、ボビー・ジェントリーが1967年に作ったヒット曲、「ビリー・ジョーの歌」の歌詞。
これが舞台中、3度にわたってダンサーによって歌われます。
橋から飛び降りて自殺した男の訃報を日常の中で聞く女の子の歌。謎が多い…
「Ode to Billie Joe」


デルタ・デイとは、ミシシッピ流域のデルタ地帯がもやで立ちこめる、暑い日のことらしい。

アヴィニョン演劇祭で絶賛されたのだけど、今回はその時とは全く演出もダンサーも変えています。
イヴァナ・ヨゼクからとっても若いダンサー、アルテミス・スタヴリディへ。(アフタートークでも、天真爛漫さと少女みたいな繊細さのある人だった)

そして会場には知り合いが多いことw

ともあれ、会場に入ると
そこにはすでにアルテミスがロッキングチェアーに腰掛けて何かを読んでいて、
天井からカナリヤの入った鳥かごが10個。
舞台には川の音にもかさなるような音をたてながら、
鉱山のように黒い石を積んだ山の周りを走る電車のプラレール。
なんやこれ!
わくわくー!

最初は女性ダンサーによって手紙が読まれます。
「僕のいとしいプリンセスへ」まあ素敵。
どうやら彼は自分から死を選んだようです。
でもこの手紙では自殺の原因というのは少しも語られない。
むしろ繰り返されるのは
死は自然なことで、生まれる時は自分の意志ではなかったけれど、
死を選ぶことは、自分の意志でできる。
つまり、死を選ぶことは、自分が生きて、意思を持った人間だったという最初で最後の証拠で
死によって生を尊ぶことができるんだ、
というような内容。
これには、病気で苦しみながら亡くなっていった母親に、自分で死を選ばせてあげられなかったヤンの経験も反映しているようです。

ちなみに、鉱夫は、鉱山のなかの酸素が薄いかとか、有毒ガスがでてないかを調べるために、
鳥かごにいれてカナリヤをつれていったそうです。
なるほどねー、つまり手紙の主は暗闇の鉱山の中(死)にかごに入れた女性の愛(カナリヤ)を持っていってしまったんだな。
ずっと彼のところに自分の気持ちがあるから、女性は途方に暮れているんだ。
そしてそこからの解放のダンス!

最初の髪の毛を振り乱して、身体全身を痙攣させる身振り
繰り返される腰を折って老人のような姿勢で石ころをつかんでは移動させる動き
ラスト近くに炭を裸体に塗るというアクション

はかなり節目の動きだったと思います。

身体の痙攣は、ヒステリーを起こした女のようで、欲望が満たされない(その昔、ヒステリーは子宮の病気で、性交によって治療されていたこともあったようです)、抑制が効かない身体
石ころの動きは、繰り返される日常の生活。(2回目にこの動きをするときには石ころは乱暴に投げられる=放棄したい衝動)
炭を塗るアクションは何か、別のものへの変化、変身
でしょうか。

そして面白いのが、ヤンの舞台美術とダンスのコラボレーション。
走る電車の模型のレールに口を開けて待ち、電車が来たら避ける。
走る電車の模型のレールに脚を開いて待ち、電車が来たら避ける。
鉱山に埋められたお酒の瓶と、それを使って男性の陰茎を模し、立ち小便なんかもしちゃう。
ヤンはアルテミスに舞台美術の中で踊らせて作っていったというから、ここらへんはやはり造形作家としての彼を見てしまいますね。
アフタートークでも、カンパニーメンバーが「ヤンは、絵画のように常に新しく色をどんどんつけたして作る」ようなことを発言していた。「be a warrior of beauty」という言葉もヤンがよくいっていたらしい。

じぶんの作品も含めて、ダンサーがどこでどうやって動いたら全体として美しいのか、常に考えているのでしょう。ダンサーは彼の舞台作品の中の一つのオブジェなんだろうなー
まあこの舞台しか見たことないから、断言はできないけれど。

そして、最後にまた手紙が読まれて、短いダンスの後、終焉。
最後に「君のランスロットより」
追伸の台詞は詳しくは思い出せないけど、「僕は愛を信じている」ような内容。
言われてみたいです!!!!w

このランスロットというのは、中世の物語「アーサー王伝説」に登場する円卓の騎士の一人。
とても強くて、騎士道を地でいくすばらしい騎士。しかし王の妻と恋に落ちてしまう。
最終的に二人とも幸せにはなれないまま死んでしまうのだけど。
彼は悲恋に死んだのか?単なる愛の修辞法か?
まあ色々考え始めるときりがないのでw
ここはビアズリー作のアーサー王の挿絵でも見て心を落ち着けて(余計興奮)。

ここでまた面白い話が。@アフタートーク
ヤンと中世的なものの関係。
甲冑もそうなんだけど、確かにあるよね。
「僕は現代芸術家ではない。古典的な芸術家なんだ」とはヤンの言葉。
でもそれが新しいことを彼は知ってるとおもうな。
中世は、拷問や迫害、魔術的なもの、性的なもの、不条理なものが日常のすぐ傍にあった時代。(と私は理解している)
これを違う形でヤンは現代に感じて、眼に見える形にしてくれているのでしょう。

総じて、確かにけだるいような何かが充満した空気感と、読み解くような舞台構成、ダンサーの肉体の若々しさが素敵でした。
でも、なんだかもうすこし足りないような気もする。なんだろう。わからないんだけど。
もう少し舞台も見るようにしよう。

ぺこ:)
前の日記で、束芋は次ので、とかかいたけど、
正味横浜のほうがよかったので、特に思うことありませんでしたw
何がちがうかといわれると、広さかなあ。
国際はインスタレーション同士が邪魔しちゃって、集中できなかった。
後、寝て見るのも、なんか学生の発想みたいでちゃっちかったです。
横浜は、正面にどーんとあの作品があった。

というわけで別のレポを。
今日は学会の中間発表も終わって少し一息ついたので、
前日に決めて東京いってきましたー

というのも...「TOKYO FOTO 2010」があるから!!!!
今年で第二回目となる写真ギャラリーだけのフェアです。
twitterで知った時は興奮しました…

ついでにといってはなんですが、ベルメール研究をしていると、やはりヌード写真も気になるので、
写真美術館にもいきました。

<写真美術館>
1.オノデラユキ展
知ってはいたものの、実際に見てみる機会があまりなく、おそるおそる、という感じで入る。
ニエプス賞や木村伊兵衛賞、写真新世紀を数々受賞した人はどんなもんなのか。(えらそう)

最初はボルタンスキーの古着プロジェクトから着想を得た「古着のポートレート」
このボルタンスキーの古着プロジェクトは、1993年にパリで行われたもの。
「離散」というタイトルで、来場者は山積みの古着を好きなだけ持ち帰ることができたそうです。
オノデラはそれを自宅の窓にかけて撮影。
山積みだった群衆からもう一度個人のポートレートを作り出しています。
まさにボルタンスキーとの勝手に共同作業w
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「真珠のつくり方」ではカメラにビー玉を入れて撮影。
黒い世界に浮かび上がる群衆を、白い球体が照らすような写真。
いれないだろ、普通!ビー玉!でもいれちゃうんですよオノデラさんは。

「Roma-Roma」では、ステレオカメラ(二枚の写真を重なるように見ると、立体的に見えてくる写真が撮影できるカメラ。一回の撮影で、二枚ができるが、オノデラはこれを別々に一枚ずつ撮れるように工夫している)を使用して、同じ地名の別の場所を撮影。
一枚に、スウェーデンのRoma.もう一枚にスペインのRoma.
重ねようと見ても、絶対に重ならないし、立体的にも見えてこないステレオ写真。
でも、どこか共通点があったりして。
同時に2つのRomaで撮影したかのような不思議な感覚に陥ります。

…とまあ、これ以外にも実験的写真のオンパレード。
遊びまくりです、オノデラさん。でも、それが良い。
しかもオノデラさん、技術だけじゃないのです。

「窓の外を見よ」では、暗闇の中に煌煌と光る家が見える写真。
カメラ・オブスクラ=「暗い部屋」を反転させている。
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オノデラによれば、この家は、「すぐ立て替えられてしまいそうな、命の短い家」を選んでいるという。
ロラン=バルトがカメラの機能を「かつてーそこにーあった」のを示すことに集約したことと関係しているかもしれない。彼にとって写真は、死んだ母親が「かつていた」のだ、と認識させてくれるものだった。ちなみに彼の有名な著書の題名は「明るい部屋」だ。

オノデラの写真の画面は個人的に好みではない。
でも、良い写真ではある。
と、私が認めざるをえないのは、書いて来たように、オノデラが写真に技術的にも知識的にも徹底していて、コンセプトを明確に打ち出してくるから。しかもそのコンセプトがまた写真でしかできない。
そのコンセプトや技術や知識、写真への挑戦的な姿勢が画面から伝わってくるので、あの作品の強さはあるんじゃないかな、と。以上。

2.「私を見て!ヌードのポートレート」展
ゴウジャス。この一言に尽きました。
マンレイの、ベロックの、メイプルソープの、さらにラリー・クラークから鷹野隆大まで!
写真美術館ではたらきたいっす…よだれダラダラ。

そしてやっぱりアルビュメンプリントいいっすよー
ヌードだと身体の線がくっきりして今にも溶け出しそうなぬるりとした質感で。
下岡蓮杖の外人用のお土産写真が面白かった。

大竹省二の母子裸身写真は衝撃的なほどエロティック。
母子写真とは思えません。
裸体だからってアラーキーの母子写真を思い起こしてはいけない。
なんだか、息子が母親を…してるようにしか見えない。
でも、ようするに、そういうことですよね。
人間は繁殖行為によって生まれて、成長して、繁殖させるんだから。

同じヌードでも、シュールに撮ったり、エロティックに撮ったり、人間らしく撮ったり、モノのように撮ったり。上質な写真ばかりでこれを一気に楽しめるのは嬉しかった。
今後の研究に役立ちそうな発想も得られたので、万々歳。

<TOKYO PHOTO2010>
森ビル40階のアカデミーヒルズ40にて。
お目当ては、日本初の写真ギャラリーだった、ZEIT FOTO SALON
その大阪版Picture Photo Space
アメリカROSE GALLERY
DANZIGER PROJECTS
TORCH GALLERY
行ってみたかったAKAAKA
SCAI THE BATHROOM
nap
と、
2つの講演会。

ギャラリーについては、ホワイトキューブ(というか可動壁)で区切られた3m四方くらいのブースが36個。(中にはかなり大きいブースもあり)
気になる写真家を何人か見つけたので、名前と写真だけ。

Julie Blackmon
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Stephen Berkman
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Graciela Iturbide
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Peter Sutherland
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Mary Mattingly
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Ruth Throne Thomsen
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コンストラクティッド写真家の多いことは気にしない。趣味だからしょうがないw
特にGraciela Iturbideは写真集買っちゃおうかと思うくらいよかった。
しかも写真集がトライヴァルな布に包まれてた。ハアハア…くすぐってきやがるぜ…

そしてロレッタラックス取り扱いギャラリーの多いこと。
別に良いけど、やっぱのりにのってますねー彼女。

penやnumeroも売りに来てました。
Ricohもブースでおすすめ写真家を紹介してました。
Ricohのデジほしー!最近周りおおいんだよなーうらやましい。
一眼重くてもってけないような時にアレがあればストレスなく撮れるのに!

講演会は、
ひとくみめの東京工芸の准教授は、ネットに載ってたまましゃべってたので特に目新しくなく
ふたくみめの管付さん(リバティーンズ編集長)とジェイムズ・ダンツィガー(マグナムフォトアメリカディレクター)は二人の意見が噛み合なすぎ。

管付さんはデジタル化を危機だと思っていて
ダンツィガーはむしろそれは別に良くてスクリーンと印刷の間に谷があると思っている。

管付さんはコマーシャル写真とアート写真を分けたがり
ダンツィガーは例に依って垣根なしという。

前者は私も考えたい課題。手仕事は本当にデジタルで代替されうるのか?
アナログがやりたくなったらいつでもできるようにしておければいいが、商品生産終わったらそれで終わりだからね。アナログ絶滅です。

後者は断然ダンツィガーさんに賛成。
というのも、世界報道写真展に行ったから。(あ、ブログ書いてない…)
ここで見た写真は、むしろどんなアート写真よりも衝撃的で美しかった。
カメラの眼がもつ鋭さと恐ろしさを感じさせてくれた。
私の中の報道写真やコマーシャル写真とアート写真の垣根をとっぱらうすばらしい機会だった。
ちなみに写真集も買ったw


そして講演会に話しを戻すと…通訳下手すぎ(お金なくてスタッフに頼ったのだろう)で早々に通訳聞かないことに決定。意外にほぼ聞き取れた。ゆっくりしゃべってくれてたしな。

さらにダンツィガーに「会場の皆さんにフォトグラムの説明して」と言われた際、
管付さん写真に関する知識はそうでもないことが露呈して残念な気分に。(しかも苦し紛れにスタッフに聞いててスタッフもお茶濁し。)
TOKYO FOTO2010で「これから日本の写真業界を盛り上げようぜ!」って言ってんのに
「ああだから盛り上がらないんだ」ってアンサー与えちゃだめでしょ。
要するに動きをひっぱってく側も写真家をいっぱい知っていても写真そのものに関しては中途半端で、外国のおっかけしたいだけみたいな人が多(ry

あの場にいた皆さん!フォトグラムは投光させた云々写真じゃありませんよ!
印画紙に直接撮りたいものを置いて、感光させるとその置いたもののあとがのこります。
要するにカメラの機械を使わずに写真が撮れるということです。
だからあの作家さんは、川そのものを焼き付けていたことになります。
ワオ!なんてファンタスティック!
っていうこの感じが会場に全然伝わらなかった。

もしかしたら説明がほんとはできたのに、てんぱちゃっただけなのかもしれないけど
管付さんもスタッフも、何のことを指して「いやー説明が難しいんだけど」と言っていたんでしょう?
私の知らない複雑なフォトグラムのやり方が他にあるのでしょうか?
あるかもしれないと思って、とりあえず調べたらでてこないし。

なんかあらゆるところで観客をおいてけぼりにしていました管付さん。
観客を馬鹿にしてるのか?と。イライラ…あ、いかんいかん。

とりあえず、講演会で良かったことは日頃「こうなのかなー違うのかなー」と思ってたことをダンツィガーが明快に宣言してくれたこと。「おお!」と嬉しくなりました。

すなわち良い写真とは
「その写真家が撮ったどの写真を見ても、写真を見慣れない人が見ても、『あ、あの人の写真だ』と分かるようなオリジナリティがあること」
私はそれにプラスして
「写真でしかできない表現であること」
が欲しいのですが。(2回目であることは気にしない)
うーん、曖昧wもっとたくさん写真をみて、勉強したいと思います。
謙虚に、どん欲にいくぜ!
文句ばっかりいってても良くならないし!文句だけ言う人にはなりたくないので
1.質(知識補充中!)2.才能(ないかもw)3.コネ(作り中)4.ポリティクス理解(これ一番足りてない)を頑張ります。

ともあれ、面白い写真家さんもたくさん知ることができて、久しぶりの東京行脚、
思考フル回転でそれなりに満足でありました。
学会終わったらまた来よう~

ぺこ:)

今日は久しぶりに1日オフだったので、美術行脚のたびに出発
するつもりだったが、まさかの寝坊。
慌てて用意したら招待券忘れてとりに戻るタイムロス。
だが、これを逃すと8月はいけないのだー!!!

ということで、いってきた。

国立国際美術館
「横尾忠則:全ポスター」
「束芋:断面の世代」

横尾さんから入場。
ウォータークーラーで水分補給を忘れてはならない。
何しろ800枚以上の作品が立ち並ぶというのだから、見てる間に水分も蒸発しようというもの。
日本初、全ポスターのならぶ、彼の大回顧展だ。

1960年代~70年代の作品は、確かに多くの人がいうように、一番面白かった。
彼のトレードマークである中心から広がる大日本帝国時代の旗のような光線と、下を埋める波。
左右対象の配置と、写真や名画からのコラージュ、繰り返されるイメージ。
この人の画業はなんと気持ちがいいほど筋が通っているのだろうか。
若いときからこの卓越したバランス感覚と独特の色彩感覚。
よく彼は作品のイメージは霊感的なものから与えられるというようなことを発言するが、確かにすでにこの時代から彼は完成しているように思える。この作品群を見ると前述のような彼の発言にも何も言えなくなりそうだ。

さらにこの時代のポスターの魅力を増すのに役立っているのは、手書きの横尾の落書きのような文字と、店の広告、時代をときめく人々たちのそうそうたる名前の数々。瀧口修造、唐十郎、四谷シモン、細江英公、土方巽、劇団民芸、天井桟敷、浅丘ルリ子、高倉健、中島貞夫…
彼の交友関係が面白く、彼のポスターと渾然一体となっていきいきした時代の空気を伝える。

さて、展覧会の冒頭での挨拶文、横尾の紹介に「外国のものではない、日本独自の云々」とあったが、
この言葉で作品のどこを評価したいのか図りかねたため、少し考えてみたい。

彼のポスターのどこどこが日本的だ、という指摘は的を得ないように思われる。
波は北斎かもしれないし、太陽は国旗かもしれないし、平面的だといえばそうだろう。しかしそれはただ一部をさすにすぎない。

問題は、むしろこうしたイメージを集め、集めたものの彼独自の操作である。

彼のポスターは、剽窃でできている。
西洋美術、東洋美術、サブカルチャー、小劇場、タカラヅカ、日本画、文学、映画、写真、流行、生活の、国内外ありとあらゆるものからよどみなく使いまくり、空間恐怖症のごとくポスターを埋め尽くしていく。宗教画の数々はもちろんゴヤの裸のマハ、アングルのトルコ風呂、ロトチェンコ…ボナールのポスターをそのまま拝借して書き直したものまである。
もとの絵からはぎとられたイメージは、それにもかかわらず、彼の強力な配置と解釈のしなおし、切り取りと組み合わせ、着彩によって、ポスターに奉仕している。

よく、誘拐された人や人質にされた人が犯人に好意をもってしまうことがあるといわれるが、まさにそんな感じだ。恥も臆面もなく、強引にイメージをひっぱり、つきあわせ、飼いならしてしまう。

まあ確かにこの姿勢が日本らしいといえばそうかもしれないが、
さらに重要なことは、こうした彼の作品にインスパイアされた若者が日本中に生まれ、一時代を作っていったということだろう。

ラスト近くになって、印象に残ったポスター上に「欲しいと思わせるようなポスターをつくる」という趣旨の言葉があるのを見つけた。
所有欲をかきたてるポスター。19世紀の時代精神を映し出したミュシャやロートレック、モーザーたちの描いたポスターはあまりの完成度に、はがされてもっていかれることがあった。横尾はこのことを考えていたのかもしれない。彼の「画家宣言」に、より肉薄した言葉だと思う。

たしかに、こんなにも欲しいと思わせるポスターは、なかなかない。
そんなポスターが、今後も続々と現れてほしい、と思わせるラストだった。

冒頭の疑問については判然としないが、彼のポスターが当時の日本らしさなるものの一部を形作っており、しかも今なおそれが世界中で評価され続けている事実があることが貴重なことなのだ、ということで自分のなかの決着がついた。

束芋は、次ので。

ぺこ:)