芙美子が ほんの少し慌てて、
「え、ええ。 勿論ご案内致しますので、どうぞ ゆっくりと ご覧になって下さいませ。」
と言いながら 美代子に歩みを合わせると、BGMの静かな ゆったりとした音楽の中に、二人のコツコツという足音が響き渡る。
「では まず、正面に見えます3脚のセット椅子。 この真ん中が私が担当させていただく お客様専用の[F席]です。」
そう言って ちょっぴり大股で数歩 歩み寄り、椅子の背もたれ部分を ゆっくりと撫でながらウットリとした表情で、
「私のこだわりで 素材は ご覧の通り、染めてない革製です。 今はまだ オープンしたばっかりの新品状態ですので なめしただけの革色ですが、使い込む程に どんどんアメ色に変化して味わい深くなっていくのを楽しみにしていますの。」
と言いつつ、セット椅子背もたれ中央部分に付いた真鍮製銘板の[F]の文字を指差し、
「ここに 私、芙美子のイニシャル[F]の文字が入っていますでしょ?」
と、心底 嬉しそうに説明を続ける。
前面の鏡は、上品な白木の縁取りがなされ、周りの白い壁紙に上手く調和している。 そして、鏡の下に張り出した 雑誌や飲み物等を置く為の小さな棚も、縁取りと同じ白木造りだ。 又、その棚右側のフックには 白いハンド・ドライヤーが架けてある。 全体に、とても清潔感がある雰囲気だ。
「う〜ん、なかなか お洒落よねぇ〜。」
と、美代子は感心する。
「お気に召しました? では 次に、この向かって左側のセット椅子。 ブラックレザー張りにクロームメッキの… 」
と、言いかけている 芙美子の言葉を遮るように、
「マリちゃんの席ね! あっ、やっぱり[M]の文字が付いてるわぁ〜。」
と、美代子が自信たっぷりに 口を挟むと、
「おっしゃる通りですわ。 ここはマリ店長の お客様専用の[M席]ですの。 うふふ… マリ店長らしいでしょう?」
と、サラリと答える芙美子。
正面の鏡の周りはクロームメッキで縁取られ、その下に張り出した棚も 漆黒の深い光沢。 フックに架かったハンド・ドライヤーも、まるで昔の床屋さんで使っていたような クロームメッキとブラックの大型の物である。 そして、黒革とクロームメッキの無機質な椅子の背もたれ部分中央に付いた[M]の字の銘板もステンレス製という、徹底したブラック&シルバーの世界なのだ。
鏡の左上の壁部分に取り付けてある、国内では現在 生産されていない色の為に、わざわざ外国から取り寄せられたという アーム式の お釜型フード・ドライヤーのボディーも、クロームメッキに縁取られた真っ黒という こだわりようだ。 その、お釜下部のフード部分は スモークの入っていない クリヤーになっている。
そして[F席]との間である 鏡右上の壁には、同じく アーム式のタカラベルモント製 ヘアースチーマーも取り付けてある。 丸いスモークのボディー本体に 被り口がダークグレイの物だ。
このヘアースチーマーは、配置的に芙美子とマリ店長の二人が共用する事が出来るが、鏡の左側にある黒いフード・ドライヤーの方は、マリ店長専用である。
…因みに、芙美子が担当するお客様のセットには、据え置き式(ソファータイプ)フード・ドライヤーに移動をして お入りいただく事になっている。 先程の受付カウンター後ろの、ヘアケアー商品を陳列した大きな棚の、丁度裏側にあたる所に在るアイボリー色ボディーの、タカラベルモント製の古風なタイプだ。 お釜下部のフードは、跳ね上げ式の前面部分が少しスモークの入ったクリヤーで、後ろ半分はボディーと一体のアイボリー色の物である。
そして、ふんわりとした座り心地のソファー部分は、黄土色がかった くすんだベージュ色で、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
位置的には、芙美子の[F席]の真後ろ、歩いて7~8歩という場所だ…
「こんな真っ黒のお釜だなんて、珍しいわよね。いかにもマリちゃんって感じだわぁ〜。」
と、右手を上げて 黒いフード・ドライヤーの ピカピカに磨き上げられたボディーを擦りながら、美代子が ため息にも似た声を漏らす。
「そうですわね。 ちょっと、宇宙っぽい SFみたいな世界ですよねぇ…」
と、芙美子が 微笑みながら答えていると、
「何が、宇宙っぽい SFの世界ですか? 全く、ガキみたいな発想しか出来ないんだから!」
と、ドスの効いた声でつぶやきつつ パーマ道具を載せたワゴンを押しながら現れたのが今、話題に上っていたマリ店長である。
歌手の 夏● マリに そっくりという事で、学生時代から[マリ]というニックネームで呼ばれ続けている、スレンダーな超美人だ。 実際に この店でも、店主の芙美子以外は 彼女の本名を知る者は居ない という、どことなく陰のある ミステリアスな存在である。
芙美子より3歳年下の50歳。 今から32年前、当時18歳で手の付けられない不良少女(スケ番)だった頃に、そして芙美子がまだ 新米美容師だった頃に、運命的出会いをした女性である。
そしてそれ以来、ずっと芙美子を 実の姉のように慕い、片腕として補佐を し続けている軍師的存在だ。
その風貌は、シャープな顔立ちを際立たせるようにキッチリとまるでバレリーナのように結い上げられた黒髪。 無駄な贅肉の一切無い均整の取れた肢体。 そこに長く尖った衿が特徴の、シンプルで真っ白なコットン・ブラウスの裾を おへその位置で無造作に結ぶ。 そしてその はだけた胸元からは、キラキラと輝く金色のセクシーなタンクトップが覗いている。
それに、形良く 丸いヒップを強調するかの如くピッタリとフィットしたブラックの革パンツに先の尖ったブラック・ブーツを合わせるという、全く一分の隙も無い着こなしだ。
そして 何よりも、数々の修羅場を くぐり抜けて来た者だけが持つ、独特の 研ぎ澄まされた鋭い剃刀のように 危険な雰囲気。 それが又、息を呑む様な美しさを醸し出している。
「シンプルなモノトーンの世界… だとか、古いモノクロームのシネマのような… とか、何か もうちょっと気の利いた表現の仕方が あるでしょうに?」
と[F席]の右後方にワゴンを停めながら、言葉を続ける マリ。
そのワゴン上には、これから美代子の施術に使用されるパーマの液剤や用具、タオル類が置かれている。そして、そのサイドには カットクロスやパーマクロスが使われる順番に重ねて掛けられており、逆サイドにはブラシやコーム類・ハサミが立てられている。又、ワゴンの2段目・3段目の引き出しには、カラフルなパーマロッドがサイズごとに整然と並べてある様子と、丸める様に畳まれた ミストキャップやビニールキャップ等が、少しだけ 覗き見る事が出来る。
…こうして、全てのお客様によって異なる液剤や用具類を、一つも間違わないように 店の奥の方にある用具室から選び出してワゴンに載せる事。 そして、各々の担当美容師の許へそれを届けるのが、マリ店長のジェネラル・マネージャーとしての大切な仕事の一つなのである…
「ワゴン、ありがとう。 でも本当ですわね、流石はマリ店長。 とっても素敵な表現ですこと。 まるで詩人ですわ。」
と、芙美子はマリ店長の台詞に、心底うっとりと感心している様子である。
「あら? マリちゃん、おはよう。 今日も一段と元気そうね。 ところで、なかなか素敵な お店じゃないの。 ここがあの寂れてた… って言っては失礼だけど、古~い昔ながらのマーケットがあった、その同じ場所だなんて、とても信じられないわね。」
と、美代子が マリに声をかける。
「ありがとうございます、古賀様。 早速、朝早くから お越しいただきまして、大変畏れ入ります。」
と、深々と お辞儀をしながら、丁寧に受け答えする マリ店長。
綺麗な丸みで、形良い頭のシルエットが くっきりと分かる程 キチンと結われ、後頭部で お団子にまとめられた黒髪は、深いお辞儀にもピクリとも揺れない。
そして、
「さあ 先生、どうぞ 古賀様に店内の ご案内を続けて下さい。」
と、芙美子の方を向いて催促してから、カラーリングの用具を載せた もう1台のワゴンを取る為に、用具室の方へ歩き始めた。
「う〜ん、何だかとっても やりづらくなりましたわよねぇ…。 店長、又 私が変な事を言っても 笑わないでくださいな?」
と芙美子が言うと、マリ店長は まるで駄々っ子を諭す母親のような口調で、
「はいはい、分かりましたよ。」
と、言いながら 2台目のワゴンを押し始めた。 用具室とは言っても 店の奥まった部分の、お客様からは見えない位置にある一角、というだけで 完全に独立した部屋では無いので、芙美子の声が ちゃんと聞こえていたのだ。
「さあ、じゃあ 気を取り直してと。 古賀様、この向かって右側のセット椅子は… 」
と、芙美子が 拳を握って 力んで話し始めると美代子は、これ迄の芙美子とマリ店長の楽しいやり取りと、この 芙美子の子供っぽい仕草が可笑しくて クックッ… と笑いを押し殺していた。 すると それに対して、
「んもう、古賀様まで私の事 バカにしていらっしゃる。」
と、芙美子が ふくれっ面をして見せるものだから、遂に我慢出来ずに、とうとう声を出して笑い始めてしまった。
そして、
「先生、相変わらず 可愛いわねぇ〜。 いい子 いい子。」
と言いながら、芙美子の頭を撫でる仕草をする物だから芙美子は ふくれっ面のまんま、右側にある [N]の文字の真鍮銘板が付いた、渋い茶色の革製セット椅子を指差しながら、
「んもう、説明を続けますからね。 このセット椅子は 今、ニューヨークで 美容修行中の夏樹さんの席ですから、当面は 予備の椅子という事になりますわね。」
と益々、駄々っ子のような可愛い仕草で、説明を続けた。
…そう、ふみこ美容室には 元々、芙美子以外に4人のスタッフが居る。 その内の一人、大井 夏樹は 2年前にアメリカで美容の勉強をしてみたいからと、単身 ニューヨークに渡ったのだ。 そして、世界的にも有名な美容室で 働きながら修行を積んでいる最中なのだ。
その彼女が、いつの日か帰って来た時に店が移転をしていて、もし自分の席だけが無かったらショックだろうから、という芙美子の配慮で この、夏樹のイニシャル [N]の文字が入った席が用意されているという訳だ…
前面の鏡の縁取りと 鏡の下の棚は、床より少し明るいトーンの木製で とても落ち着いた雰囲気だ。 芙美子の [F席]との間の壁に、アーム式の遠赤促進器 タカラベルモントの白いボディーのローラーボールが取り付けられている。
その間にマリ店長が、カラーリング用のクロスやタオル、カラー剤、ミストキャップやカラー用のビ二ールキャップ等が載った2台目のワゴンを、先程のワゴンの右側に無言で置いた。 そして 次に、用具室に置いてあるミストブロー器、白いボディーのピジョン・ミスティーO2を取りに向かった。