先日に続き、児玉源太郎について。『坂の上の雲』にも少し記述があるように、児玉源太郎が旅順に出向いたのは二百三高地攻略の直前だけではありません。では、その一回目の督戦の際には、児玉源太郎は何をしていたのでしょう。
ご存知の方があれば、ご教示をお願いしたいのですが、具体的に何をしていたのか良くわかりません。
ご存知の方があれば、ご教示をお願いしたいのですが、具体的に何をしていたのか良くわかりません。
光人社NF文庫の佐山二郎『日露戦争の兵器 付・兵器保管参考兵器沿革書』を読んでいたら、9月28日に旅順の児玉源太郎から大山元帥に宛てた書簡が掲載されていました。
9月28日というと、前日の記事に書いた各会戦の年表を見てみると、沙河会戦の直前です。以下、再掲します。
9月28日というと、前日の記事に書いた各会戦の年表を見てみると、沙河会戦の直前です。以下、再掲します。
1904年10月9日~10月20日 沙河会戦 司令官:大山巌(黒木為楨、奥保鞏、野津道貫)
三個軍団120,000名 死傷者20,497名
三個軍団120,000名 死傷者20,497名
1904年10月26日~10月30日 旅順攻囲戦(第二回総攻撃) 司令官:乃木希典
三個師団他?名 死傷者3,874名
三個師団他?名 死傷者3,874名
児玉の書簡は、次の通り。
拝啓(中略)サテ当地ノ滞在甚ダ長引恐縮ノ至ニ御座候又何分弾薬補給等ノ為メ困難不少幾分カ前途ノ方針をヲ定メ度又十月一日ニハ二十八サンチノ砲撃ヲ始メ候予定ニ付一日ナリトモ其結果ヲ見テ帰り度奉存候此段御免シ被下度何レ書余ハ帰遼之上可申述候 草々
九月二十八日 源太郎
大山元帥閣下
九月二十八日 源太郎
大山元帥閣下
丁度、8月下旬に第一次総攻撃の失敗を受け、正攻法への戦術転換したために第三軍が塹壕戦の準備に時間を要していたのと、攻め手に欠いた兵器の切り札として「二十八サンチ砲」の据付をしていた時期に相当する時期の書簡に思われます。
児玉源太郎も、この時期の主攻を要塞主要部としていたことがこれでもわかるし、児玉がいたから落とせるのであればこの時期でも落とせたはずであり、繰り返し述べるようですが、たとえ二十八サンチ砲があったといっても容易に落とせる要塞ではなかったのです。