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来年のNHK大河「江」 主演は上野樹里


 …という記事が昨日、報道されていました。

 「江」に関しては、これまでも記事にしてきました。「江」というのは、尾張大野城主・佐治與九郎一成に嫁いだ小督(お江、お江与ともいう)のことです。與九郎とは、秀吉に強制的に離縁せられ、後に二代将軍・徳川秀忠の正室になり、千姫や家光の母となる人でもあります。

 以前書いた記事を、増補・訂正(枠内部分)した再録になります。
 佐治與九郎は、戦国時代、強力な水軍を率い伊勢湾一帯の海上交通を支配した武将で、佐治家四代当主。佐治家は、武力としては佐治水軍を持ち、織田家との代々の深い姻戚関係で栄華を誇ります。佐治家四代といい、初代・佐治駿河守宗貞、二代・佐治上野守為貞、三代・佐治八郎信方、四代が 佐治與九郎一成。

 信長の妹のお市の方が浅井長政に嫁いで云々、という話は有名ですが、実はこのお市の方には姉(一説には妹)がいました。その姉(お犬の方といいますが)の嫁ぎ先がこの佐治與九郎の父、佐治信方でした。つまり、この佐治與九郎という人物は、信長の甥にあたるわけです。

 一方、お市の方と浅井長政との間には、茶々、お初、小督(「江」)という三人の娘があります。この茶々というのはいうまでもなく後の秀吉側室の淀君です。その三女、「江」の初婚の相手(秀吉の命による)が、佐治與九郎で、亡き信長からみれば姪と甥との婚礼となったわけで、織田家との血縁がよりいっそう深いものになります。

 しかし、織田家との血縁が深くいたし方なかったのでしょうが、信長の次男・織田信雄のために、その栄華も一変することになります。小牧長久手の戦で、佐治與九郎は秀吉には従わず、織田信雄を表向きに擁立した家康側についたため、戦後処理の段階で、秀吉により「江」と離縁させられてしまいます。そして佐治與九郎はこの地から追放(Wikiの記述によれば、叔父の織田信包の伊勢へ逃れ、後に信長の側室お鍋の方の娘、つまり信長の娘である於振を正室に迎えたとのこと。後に京都で死去)、大野佐治家は没落します。ちなみに、フィギュアスケートの織田信成は、Wikiによれば、織田信長七男の家系です。しかし、その家系が途中で養子をこの織田信雄の家系からもらっているために、血統的には信雄が祖ということになります。

 没落の経緯は、事実上の天下人である秀吉とは、まともに戦うこともできなかったようで、無血開城だったようです。ただし、大野(常滑市大野町)周辺では華々しい(といっては語弊があるが)炎上をともなう落城伝説も無いわけではありません。知多半島のこの一帯を中心として残る「虫供養念仏」の由来がこの落城伝説に関連します。落城の際、佐治與九郎は討ち死に、夫人-つまり「江」-は、阿弥陀如来の掛け軸を手に落ち延びました。その際、その掛け軸を「大興寺」というお寺に隠していった。その後、その近隣の13ヵ村ではその掛け軸をかけて、戦死者の供養にした。現在でも、二市にまたがる旧13ヵ村(現在でも変わっていない)が交代で当番にこの掛け軸を持ち回って「虫供養念仏」が続いている、というものです。「武者供養」がいつの間にか「虫供養」となって残っているのです。「虫供養」は、県の無形民俗文化財に指定されています。私も、子供の頃、よく祖母に「虫供養」につれられて行ったものです。 

 では、炎上はどういった原因からだったのでしょうか?
 この城があったのは、青海山という丘の上です。私が通っていた中学校は、この山のふもとが通学路でした。現在では、青海山全体に住宅開発がされてしまっていますが、私の中学生当時はそうではなく、結構規模の大きな竹薮や、草木に覆われたたお堀跡にそって山道ができていて山頂へもそこから登ることができました。野外教室で様々な植物採取をしたり、また、山頂付近には草木がまばらで起伏のある地肌が露出した場所もあって、そこで石投げ合戦をして遊んだものです。小石に限定した戦いですが、今から考えるとかなり危険です。旅順攻囲戦でも弾薬に欠乏すると、石を投げたりしていますから。実際に、私たちも、実際に血を流したりこぶや青あざをつくったりしました。当時の子供たちはこの程度は平気だったのですね。しかし、危険な分だけ興奮して楽しかったものです。子供でも、こういう遊びでは、やはり起伏を利用した塹壕(蛸壺というのか)戦を行うものです(笑)こういう遊びをするとわかりますが、蛸壺をつたわっていったとしても、最後に敵を制圧できるかどうかは白兵戦をする勇気にかかっています(笑)
 父親から当時聞かされた話ですが、この大野城が攻められたときに、この山頂への道のあちこちに、「竹の皮」を敷き詰め、敵兵がすべって登りにくくしたのだそうです。(出典を聞いておけば良かったが…)
 また、一説では、竹の皮で覆ったのは城壁一面だったとか…。どちらにせよ、子供だましのような気がしないでもありません。が、逆にこの竹の皮を利用した火攻めにあい、それがもとで大野城は炎につつまれます。

 実は、「江」は、「大興寺」(今は地区名にもなっています)へ行く前に、小倉というところにある「蓮台寺」(私の出身小学校の近くにあります)に逃げ込んでいます。逃げ込んだ寺の小門は、内側からしっかりと閉ざされました。しかし、追っ手の寄せるのをみて、「江」は、とっさに着ていた衣を、境内の松の枝に掛け、自害を装い「蓮台寺」から逃れます。たぶん、井戸に身を投げた、と見せかけるためでしょう。そして、既に述べた「大興寺」に掛け軸を隠し、いずこへか落ちていきました。
 この、「蓮台寺」の小門はそれ以来閉ざされたままで、「あかずの門」といい、衣をかけた松は「衣掛の松」という優雅な名がつけられ、これらの伝説と共に今に残っています。

 実際には、「江」は秀吉にしっかりと庇護されていたわけで、この伝説が何を物語っているのかは、謎のままです。 

 さて、「江」は、その後、豊臣秀勝の妻を経て徳川二代将軍秀忠の正室(継室)となります。その子だもたちが凄い顔ぶれです。すべて主役級の人物ばかりといっても良いでしょう。
 家光、忠長(駿河大納言)、千姫(豊臣秀頼正室)、さらには後水尾天皇中宮となった和子(東福門院和子)を生みます。要するに、派手に歴史をにぎわす人々の母になるわけです。
 たとえば、家光と弟・忠長との間で生じた次期将軍の座を巡る争いでは、「江」は、これまでの映画やドラマでは忠長を溺愛するがあまり、家光の乳母である春日局と激しく対立し、様々な陰謀に加担したりしています。散々なことしたり、させられたりしています。(関係ないのですが、里見浩太朗演じるところの、松平長七郎は、この駿河大納言忠長の遺児という設定です。「江」の孫ですね)

 ちなみに、豊臣秀勝との間には、完子(さだこ)という子があり、秀忠の正室となるにあたり、茶々(淀君)に引取られます(茶々の猶子)
 完子は、後に九条幸家の正室で、九条道房の母となります。九条道房の子孫には、貴族院議員・九条道孝、つまり、昭和天皇の母方の祖父がいます。
 佐治與九郎や「江」に関しては、歴史小説の題材にもなっています。永井路子『乱紋』、井上靖『佐治與九郎覚書』(短編)という二作が有名。最近では、諸田玲子さんが『美女いくさ』という小説を出版されています。もう年単位で放置…(笑)未読なのですが…。
 その中で、完子は、「佐治與九郎との子」という設定になっています。

 佐治與九郎の子孫がどうなっているのか、今となってはわかり辛いのですが、もしこの小説の設定が事実であるとすれば、要するに昭和天皇のはるかな先祖には、佐治與九郎がいる…ということになります。

 写真は、諸田玲子『美女いくさ』 2008年9月 中央公論新社刊。

 二枚目の写真は、雪舟作「達磨慧可断臂図」(国宝)…常滑市大野町の斉年寺(佐治家菩提寺)蔵。この作品は、佐治與九郎の祖父、佐治上野守為貞が斉年寺に献じたものと言われています。(写真は、京都国立博物館からお借りしました)