さて、先日の記事で乃木が野戦で薩摩主力と野外決戦をしていたとき、児玉源太郎は、熊本城での籠城戦の指揮をとっていました。
児玉源太郎は、後の日露戦争時に旅順における二百三高地攻略戦において、ロシアの予備兵力を殲滅するために、味方である筈の日本兵を囮にロシア兵が密集した場所へ二十八サンチ砲で弾丸を撃ち込むという自軍の損害を顧みない過酷な作戦を取ったことでも知られています。このとき、二百三高地を占領するにはこのような作戦を取らずとも乃木の正攻法でも時間をかければ可能であったはずですが、海軍からの苛烈な二百三高地攻略の要請を受けるに見せかけ、児玉としてはロシア軍の戦力を消耗させる良い機会と見てこのような作戦を取ったものでした。どうせ、自軍にいかなる損害が出ようともその責任は、その戦果と引き換えに現場責任者である乃木希典が負ってくれるわけです。さらに言えば、そのことで満州総司令部の第三軍に対するこれまでの戦いにおける指示のまずさと言うものも覆い隠すことも可能です。
機を見るに敏な児玉は、自分の旅順への差遣に合わせたように、大山巌からも二百三高地攻略に手間取っている乃木を叱責させるというパフォーマンスまでわざわざ行います。児玉の実質的な指揮で、ロシアが都合よく予備兵力を投入してきた二百三高地を陥してみせることで、結局はそれまで攻略できなかったのは乃木司令部参謀の無能さということに転化し、それまでの自分たちの不手際を棚に上げてしまいます。もちろん、児玉は児玉で万が一の失敗も許されないので、満州から一部兵力を自分の指揮下に入れ、これまで第三軍の要求では出し渋り肉弾で攻めろ…などと指示していたはずなのに、いつの間にか砲弾も十分に準備されているという念の入れようです。児玉は、その政治力を十二分に駆使しています。
さらに、乃木を手助けしようとしたもう一つの理由としては、乃木第三軍の苛烈な旅順要塞への攻撃が満州で相対していたクロパトキンを恐れさせていたという事実でしょう。児玉としては、乃木は旅順を落とすであろうことは確実視したものの、そのタイミングが来るべき奉天会戦に間に合わなくては意味がありません。
結果的に乃木は奉天会戦に間に合い、クロパトキンは児玉の陽動作戦にまんまとはまってしまいます。まさに現場に無理をさせ現場の作戦能力を無能とし責任を押し付け、満州総司令部の作戦が奏功したように見せつけ、さらには今後の会戦の手当てまでしてしまう。何とも恐るべき魔術的な「児玉作戦」であったのです。現代人である司馬遼太郎も結局は、その児玉源太郎の魔術のままに動かされてしまっています。まさに、死せる児玉、生ける司馬遼太郎を走らす、の巻でしょう(笑)
児玉源太郎は、後の日露戦争時に旅順における二百三高地攻略戦において、ロシアの予備兵力を殲滅するために、味方である筈の日本兵を囮にロシア兵が密集した場所へ二十八サンチ砲で弾丸を撃ち込むという自軍の損害を顧みない過酷な作戦を取ったことでも知られています。このとき、二百三高地を占領するにはこのような作戦を取らずとも乃木の正攻法でも時間をかければ可能であったはずですが、海軍からの苛烈な二百三高地攻略の要請を受けるに見せかけ、児玉としてはロシア軍の戦力を消耗させる良い機会と見てこのような作戦を取ったものでした。どうせ、自軍にいかなる損害が出ようともその責任は、その戦果と引き換えに現場責任者である乃木希典が負ってくれるわけです。さらに言えば、そのことで満州総司令部の第三軍に対するこれまでの戦いにおける指示のまずさと言うものも覆い隠すことも可能です。
機を見るに敏な児玉は、自分の旅順への差遣に合わせたように、大山巌からも二百三高地攻略に手間取っている乃木を叱責させるというパフォーマンスまでわざわざ行います。児玉の実質的な指揮で、ロシアが都合よく予備兵力を投入してきた二百三高地を陥してみせることで、結局はそれまで攻略できなかったのは乃木司令部参謀の無能さということに転化し、それまでの自分たちの不手際を棚に上げてしまいます。もちろん、児玉は児玉で万が一の失敗も許されないので、満州から一部兵力を自分の指揮下に入れ、これまで第三軍の要求では出し渋り肉弾で攻めろ…などと指示していたはずなのに、いつの間にか砲弾も十分に準備されているという念の入れようです。児玉は、その政治力を十二分に駆使しています。
さらに、乃木を手助けしようとしたもう一つの理由としては、乃木第三軍の苛烈な旅順要塞への攻撃が満州で相対していたクロパトキンを恐れさせていたという事実でしょう。児玉としては、乃木は旅順を落とすであろうことは確実視したものの、そのタイミングが来るべき奉天会戦に間に合わなくては意味がありません。
結果的に乃木は奉天会戦に間に合い、クロパトキンは児玉の陽動作戦にまんまとはまってしまいます。まさに現場に無理をさせ現場の作戦能力を無能とし責任を押し付け、満州総司令部の作戦が奏功したように見せつけ、さらには今後の会戦の手当てまでしてしまう。何とも恐るべき魔術的な「児玉作戦」であったのです。現代人である司馬遼太郎も結局は、その児玉源太郎の魔術のままに動かされてしまっています。まさに、死せる児玉、生ける司馬遼太郎を走らす、の巻でしょう(笑)
さて、熊本城の児玉源太郎のことです。近代要塞というものはべトンで固めたものから、塹壕すなわち砲撃や銃撃から身を守るために作った泥の溝へと変遷してきました。日本の天守閣というものは大砲や小銃が主流の戦争にとっては、その城の炎上やそれに伴う建物崩壊で思わぬ被害を受ける可能性があります。兵や兵糧のための必要最小限の設備があればよく、いくら加藤清正が作った城郭と言えども歴史的建造物としての価値はともかく戦争においては天守閣のような構造物はもはや無用の長物でしょう。天守閣がなくても、べトンの代わりの幾重にも重なった石垣や堀が守ってくれるわけですから。
実は、熊本城天守閣及び主要建物は、西南戦争がはじまり籠城と決まった段階で、薩摩軍に包囲される直前に炎上消失しています。
これには児玉源太郎が深く関わっています。はっきりと言ってしまえば、熊本城に放火して回ったのは児玉源太郎であるという説が、現在では有力になっています。このとき、児玉は乃木と同じ少佐。熊本鎮台司令官の谷干城とは必ずしもうまくいっていなかったという説もありますが、若い時代からやることは凄まじい。
台湾統治の際も、乃木の後任として総督になりますが、乃木を悩ませた総督府の官僚たちの大量解雇、台湾原住民への叛乱への過酷な処置など、乃木にはない児玉の魅力といえましょう。
実は、熊本城天守閣及び主要建物は、西南戦争がはじまり籠城と決まった段階で、薩摩軍に包囲される直前に炎上消失しています。
これには児玉源太郎が深く関わっています。はっきりと言ってしまえば、熊本城に放火して回ったのは児玉源太郎であるという説が、現在では有力になっています。このとき、児玉は乃木と同じ少佐。熊本鎮台司令官の谷干城とは必ずしもうまくいっていなかったという説もありますが、若い時代からやることは凄まじい。
台湾統治の際も、乃木の後任として総督になりますが、乃木を悩ませた総督府の官僚たちの大量解雇、台湾原住民への叛乱への過酷な処置など、乃木にはない児玉の魅力といえましょう。
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写真は、児玉源太郎の自筆書。これは肉筆のように思えますが、入手先がちゃんとした業者でないのでいつもことながらはっきりしたことは不明。二枚目の写真にある落款・印章はそれぞれ児玉の号である「藤園」、陰印が「児玉氏印」、陽印が「藤園」