この作品は、明治天皇や大正天皇宮廷歌人・阪正臣が明治天皇の代表的な御製を墨書したもの。表装への虫食いやシミなどあって必ずしも状態の良いものではありませんが、本紙には辛うじておおきな欠点もなく保存されていたものです。
明治天皇御製
あさみどり 澄みわたりたる 大(おほ)空の 廣きをおのが こころともがな
あさみどり 澄みわたりたる 大(おほ)空の 廣きをおのが こころともがな
ですが、本作品では変体仮名が用いられており、少々、苦労して(笑)調べ解読したところ以下のように書かれているのだと思います。
明治天皇御製
阿さ美どり 澄み渡り多る 於本楚ら能 ひろ幾乎於の可 古々ろ登も賀那
阿さ美どり 澄み渡り多る 於本楚ら能 ひろ幾乎於の可 古々ろ登も賀那
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さて、書道出版・天来書院のホームページ、2009年8月3日付けの記事に阪正臣のことが記載されていましたのでリンクと引用をしておきます。「第63回 夏は夜:夏の夜 一瞬の時 朝顔 蓮 螢」という記事です。
3 阪正臣の夏
月きよくかぜここちよき夏の夜も
いたくふかさじ 朝いもぞする
(月がすっきり清らかで 風も心地よい夏の夜でも
ひどく夜更かしはしないでおこう、寝坊をしたらたいへんだ)
阪正臣「樅園詠草」『樅屋全集』二 所収
清い月、心地よい風、日昼とは打って変わった爽涼な夜の風情です。何をするにも生き生きとはかどってなかなか止められないのでしょう。「朝い」は「朝寝」、朝寝坊のことです。
これは、幕末に生まれ明治大正期の伝統派和歌を支えた歌人、また仮名の能書としても一家をなした国学者阪正臣の、私的な日記のような詠草の中にあった歌です。真面目な独り言のような、それだけに真っ直ぐに人柄を感じさせる作が並んでいる中の一首です。
阪正臣(1855〜1931)は安政2年3月23日生れ、尾張横須賀の人。本姓は坂(さか)。神官の家に育ったこともあって自然に国風の諸文化に親しみ、歌、書、また狩野派の絵にも堪能でした。平田鉄胤(ひらたかねたね1799〜1880 )について国学を学び、明治18年に30歳で宮中御歌所(当時は侍講局文学御用掛・じこうきょくぶんがくごようがかり)に入りました。ことに和歌に御熱心であられたという明治天皇の御信任厚く、明治28年には御歌所に籍を置きながら華族女学校の教授に任命され、在職中に内親王方の書のお稽古役を務めました。明治・大正期、女学校の書写の教科書はほとんど阪正臣の手であった時期があります。比田井天来の妻小琴はこの人の内弟子となって歌と書を学んだことが知られています。
阪正臣には、自分のお気に入りを詠んだ歌に
よき硯よきふでよきかみ
よき人のみづくきのあと書(き)うつすわざ
「蛙侶吟稿」『樅屋全集』二 所収
などといったものも見え、手習いが日頃の楽しみであったことが窺えます。夏は夜にこそその手習いも弾んだのでしょうが、度を過ごさないように気をつけようというのは、いかにも抑制の利いた端正温雅な書風を持ち味とするこの人らしい心です。
もっとも、阪正臣の夏の歌を通覧すると、その名も「夏」と題して
何ごとをなすも日かげの長くして
夏はよきとき すてがたきとき
「正臣歌集」『樅屋全集』三 所収
などともあって、参りました。「日かげ」とは日の光、日差しのことです。日かげが長いとは日の射している時間すなわち昼間が長いことを言うのです。
日が長いので何ごとをなすにもよい、十分に時間を使えるというわけです。だから夏はよい時期である、捨て難い季節である、と。
阪正臣がみずから戒める夜更かしは、日が落ちてようよう活動を始める人の夜更かしではありません。夏だから昼間は昼寝をしていますという私、いや我が家のみややひたちの夜更かしとは違って、昼も勤勉に活動している人の夜更かしであったらしいのです。
月きよくかぜここちよき夏の夜も
いたくふかさじ 朝いもぞする
(月がすっきり清らかで 風も心地よい夏の夜でも
ひどく夜更かしはしないでおこう、寝坊をしたらたいへんだ)
阪正臣「樅園詠草」『樅屋全集』二 所収
清い月、心地よい風、日昼とは打って変わった爽涼な夜の風情です。何をするにも生き生きとはかどってなかなか止められないのでしょう。「朝い」は「朝寝」、朝寝坊のことです。
これは、幕末に生まれ明治大正期の伝統派和歌を支えた歌人、また仮名の能書としても一家をなした国学者阪正臣の、私的な日記のような詠草の中にあった歌です。真面目な独り言のような、それだけに真っ直ぐに人柄を感じさせる作が並んでいる中の一首です。
阪正臣(1855〜1931)は安政2年3月23日生れ、尾張横須賀の人。本姓は坂(さか)。神官の家に育ったこともあって自然に国風の諸文化に親しみ、歌、書、また狩野派の絵にも堪能でした。平田鉄胤(ひらたかねたね1799〜1880 )について国学を学び、明治18年に30歳で宮中御歌所(当時は侍講局文学御用掛・じこうきょくぶんがくごようがかり)に入りました。ことに和歌に御熱心であられたという明治天皇の御信任厚く、明治28年には御歌所に籍を置きながら華族女学校の教授に任命され、在職中に内親王方の書のお稽古役を務めました。明治・大正期、女学校の書写の教科書はほとんど阪正臣の手であった時期があります。比田井天来の妻小琴はこの人の内弟子となって歌と書を学んだことが知られています。
阪正臣には、自分のお気に入りを詠んだ歌に
よき硯よきふでよきかみ
よき人のみづくきのあと書(き)うつすわざ
「蛙侶吟稿」『樅屋全集』二 所収
などといったものも見え、手習いが日頃の楽しみであったことが窺えます。夏は夜にこそその手習いも弾んだのでしょうが、度を過ごさないように気をつけようというのは、いかにも抑制の利いた端正温雅な書風を持ち味とするこの人らしい心です。
もっとも、阪正臣の夏の歌を通覧すると、その名も「夏」と題して
何ごとをなすも日かげの長くして
夏はよきとき すてがたきとき
「正臣歌集」『樅屋全集』三 所収
などともあって、参りました。「日かげ」とは日の光、日差しのことです。日かげが長いとは日の射している時間すなわち昼間が長いことを言うのです。
日が長いので何ごとをなすにもよい、十分に時間を使えるというわけです。だから夏はよい時期である、捨て難い季節である、と。
阪正臣がみずから戒める夜更かしは、日が落ちてようよう活動を始める人の夜更かしではありません。夏だから昼間は昼寝をしていますという私、いや我が家のみややひたちの夜更かしとは違って、昼も勤勉に活動している人の夜更かしであったらしいのです。