後藤新平(Ⅴ)


佐治與九郎、阪正臣、後藤新平…この人たちの共通点は、ハルの出身地・愛知県に関係があり子供のころに話を聞いて育った人たち…ということだけです。後藤新平に関しては、愛知県との絡みは不思議に思われるかもしれませんが、以下のような関連があります。後藤新平ということよりも「愛知医学校」の話としてだったかもしれません。

名古屋大学の「ちょっと名大史」より引用いたします。

愛知医学校校長後藤新平 一名大をひきいた人びと①-

後藤新平(1857-1929)といえば、衛生・植民地・鉄道・都市行政や外交などに広く手腕を発揮し、逓信大臣、内務大臣、外務大臣などを歴任した、近代日本を代表する官僚・政治家の1人としてつとに有名です。その後藤のキャリアの出発点が名大の源流にありました。後藤は安政4年、水沢藩士の子として現在の岩手県奥州市に生まれました。水沢藩が戊辰戦争で新政府に敵対したこともあって苦学のすえ、 1876(明治9)年に医師として就職したのが、名大医学部の前身にあたる愛知県公立病院(81年に愛知病院)だったのです。
最初は安月給の三等医でしたが、病院内にあった医学校(81年に愛知医学校)には、お雇い外国人ローレツと司馬凌梅という、ドイツの医学や衛生学を学ぶには当代最高の人物がいました。やがて後藤はめざましい出世をとげ、 81年に24歳の若さで医学校長兼病院長となり、83年までその職にありました。
当時の愛知病院は、まだ内科と外科の区別もないような状態で、早急に基礎を確立する必要に迫られていました。
後藤校長は思い切った人事を断行し、当時きわめて貴重だった日本人医学士を4名も採用しました。奈良坂源一郎や熊谷孝之輔など、後藤が去ったのちの愛知医学校を担った人材もこの時に着任しています。そして彼らを中心にして、組織の整備をおこないました。その結果、愛知医学校は全国でも有名になり、 83年には数少ない甲種医学校に選定されました。もしこの時、乙種にあまんじていたら、愛知医学校ひいては名古屋大学の歴史も少なからず変わっていたかもしれません。
また、この時代のエピソードとして、 「板垣死すとも自由は死せず」で有名な、 1882年の岐阜における板垣退助遭難事件があります。自由党と関わって政府ににらまれることを恐れて誰もが尻ごみするなか、後藤病院長が板垣の診察にかけつけた話です。