NHKが、4月5日に放送した「NHKスペシャル シリーズ JAPANデビュー 第一回 アジアの〝一等国〟」に対して散々な記事を書いている関係上、私自身の台湾経験というものについても書いておきたいと思う。…といってもたいしたことはないが。
二十代後半、ある医療用装置の不具合があり、その装置開発部隊の下っ端技術者であった私は、装置を修理する部品を持って、台湾全土の顧客(診療所が主)を謝罪しながらの修理に訪問することになった。本来は、その装置の直接の開発担当者が行く予定であったが、病気でドクターストップがかかり私にその役目がまわってきたのである。そのときの上司は私を気の毒に思ったのかどうかわからないが、この台湾出張のあとにオーストラリアでの展示会説明要員という比較的楽な仕事を割り振ってくれた。その「比較的楽…」というのはその上司にとってであり、台湾でその命を受けた私は、逆にそっちのほうがプレッシャーに感じた。というより、英語が苦手な私はどうしようかと愕然とした。気を使ってくれるのは嬉しかったが・・・。
台湾の出張はどうしたかといえば、台湾での代理店の方がついて回っていただきその方が日本語で通訳をしていただけると聞いていたのと、謝罪先の先生にしても高齢の方は日本語をよく話される方がいるということで、言語に関するプレッシャーはそれほどでもなく、さらに当時は、行き帰りの航空機も、今のように世知辛くなく、ビジネスクラスを利用できたため贅沢な旅行をさせてもらい申し訳ないくらいに思っていたのであった。
台湾から帰国してすぐ、オーストラリア出張までの僅かな期間に、マンツーマンの英会話学校に通い、さらには速成での対策をしなくてはならないため、展示会で説明する装置のカタログを英会話学校に持参しプレゼンテーションの仕方を学習するという、費用のかかる努力をした…。
二十代後半、ある医療用装置の不具合があり、その装置開発部隊の下っ端技術者であった私は、装置を修理する部品を持って、台湾全土の顧客(診療所が主)を謝罪しながらの修理に訪問することになった。本来は、その装置の直接の開発担当者が行く予定であったが、病気でドクターストップがかかり私にその役目がまわってきたのである。そのときの上司は私を気の毒に思ったのかどうかわからないが、この台湾出張のあとにオーストラリアでの展示会説明要員という比較的楽な仕事を割り振ってくれた。その「比較的楽…」というのはその上司にとってであり、台湾でその命を受けた私は、逆にそっちのほうがプレッシャーに感じた。というより、英語が苦手な私はどうしようかと愕然とした。気を使ってくれるのは嬉しかったが・・・。
台湾の出張はどうしたかといえば、台湾での代理店の方がついて回っていただきその方が日本語で通訳をしていただけると聞いていたのと、謝罪先の先生にしても高齢の方は日本語をよく話される方がいるということで、言語に関するプレッシャーはそれほどでもなく、さらに当時は、行き帰りの航空機も、今のように世知辛くなく、ビジネスクラスを利用できたため贅沢な旅行をさせてもらい申し訳ないくらいに思っていたのであった。
台湾から帰国してすぐ、オーストラリア出張までの僅かな期間に、マンツーマンの英会話学校に通い、さらには速成での対策をしなくてはならないため、展示会で説明する装置のカタログを英会話学校に持参しプレゼンテーションの仕方を学習するという、費用のかかる努力をした…。
さて、台湾出張のことに戻る。乗った航空機が、まず日本航空ではなかった。当時、全日空もまだ国際線への進出を始めたばかりの時代であったので、日本の航空会社で海外へ行くには当然、日本航空と思っていたが、そうではなかった。
つまり、1972年にそれまで中共と呼ばれていた中華人民共和国(中国共産党政府)との間の国交正常化がなったことにより、日本は台湾(中華民国政府)との国交を断絶した。そのため、中華人民共和国に乗り入れる日本航空は、台湾への乗り入れが禁止されていた。あるいは、中国共産党政府への配慮から乗り入れを禁止した。
そこで、日本航空のグループ会社として設立された「日本アジア航空」という航空会社が代わりに台湾への便を運航するという便法が考えられていた。
私は、その日本アジア航空で伊丹から台北へ飛び、その後、台中、台南、高尾へと南下し、その太平洋岸へ出て花蓮までそして台北に戻るという旅程である。台湾は中央には山脈があるため主要都市は海岸線に沿って-日本列島で言えば、四国のように-存在している。すなわち、完全に台湾一周をすると考えられたい。
つまり、1972年にそれまで中共と呼ばれていた中華人民共和国(中国共産党政府)との間の国交正常化がなったことにより、日本は台湾(中華民国政府)との国交を断絶した。そのため、中華人民共和国に乗り入れる日本航空は、台湾への乗り入れが禁止されていた。あるいは、中国共産党政府への配慮から乗り入れを禁止した。
そこで、日本航空のグループ会社として設立された「日本アジア航空」という航空会社が代わりに台湾への便を運航するという便法が考えられていた。
私は、その日本アジア航空で伊丹から台北へ飛び、その後、台中、台南、高尾へと南下し、その太平洋岸へ出て花蓮までそして台北に戻るという旅程である。台湾は中央には山脈があるため主要都市は海岸線に沿って-日本列島で言えば、四国のように-存在している。すなわち、完全に台湾一周をすると考えられたい。
いよいよ、台北に到着。そこでの出来事は次回。