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サド裁判(Ⅴ)


横田正俊裁判官の反対意見(続き)

(ろ)被告人らの行為の可罰性について。
 本件訳書がわいせつ文書に該当しないとすれば、進んで被告人らの行為の可罰性を論ずる要はないこととなるが、わいせつの概念は相対的なものであるから、多数意見のように、本件訳書はわいせつの文書に該当するという見解も必ずしも成り立ちえないではない。しかし、仮りにそのような見解をとつたとしても、私は、本件の場合においては、被告人らの行為の可罰性を否定するのが相当であると考える。その理由は、次のとおりである。
 (イ)ある作品の一部にわいせつ性を帯びた部分があるが、その作品に思想性、学術性、芸術性などが認められる場合において、そのわいせつ性のある部分を除外しても、その作品の思想性等が損なわれないときは、わいせつ性のある部分を削除することにより、表現の自由が不当に制限されるという問題は起らないものと思われる。しかし、わいせつ性のある部分を除外することによつてその作品の思想性等が損なわれるときは、わいせつ性のある部分を削除することは、その作品自体についてその表現の自由がおのずから制限されることになるものといわなければならない。すなわち、後の場合には、わいせつの文書の頒布行為等を許してはならないとする要請と、思想性等のある文書についての表現の自由の要請をいかに調整すべきかが重大な問題となる。そして、私は、抽象的にいえば、前の要請を後の要請に優先させるのを相当とする場合には、思想性等のある文書といえども、その頒布行為等を禁止すべく、これに反し、後の要請を前の要請に優先させるのを相当とする場合には、わいせつの文書の取締りということを犠牲にしても思想性等のある文書の頒布行為等を許し、その可罰性を否定するのが相当であると考える。そして、具体的事案において、いずれの要請を優先させるべきかは、諸般の事情、とくに左の点を十分にしんしやくしてこれを判定すべきものと考える。
  (1)わいせつの概念は抽象的かつ相対的なものであるから、性的文書にわいせつ性のあるものとないものとの区別があるように、わいせつ性のある文書にも、わいせつ性の強いものと弱いものとの区別があると思われる。わいせつ性が強いとは、抽象的には、読者の性欲を著しく刺戟し、興奮させる性質を伴うことをいうが、この度合は、本件訳書のごとき一般向けの出版物については正常な一般社会人を基準にしてこれを決定すべきである。そして、わいせつ性の強い部分を含む作品については、わいせつ文書取締の要請を優先させ、作品全体の頒布行為等を禁止することを已むをえないものと考える。いわゆるチヤタレー裁判の対象となつた作品のごときは、この部類に属するものではないかと思われる。
  (2)わいせつ性の弱い部分を含む作品については、それが作品のうちで占める重要度が作品のもつ思想性等の重要度より高いときは、わいせつ文書取締の要請を優先させ、作品全体の頒布行為等を禁止することも已むをえないものと考える。これに反し、作品のもつ思想性等の重要度がわいせつ性のある部分の占める重要度より高いと認められる場合には、表現の自由に対する要請を優先させ、その作品の頒布行為等を許し、その可罰性を否定すべきものと思う。そして、この重要度が高いかどうかは、単に分量的にではなく、作品全体を通じて質的にこれを判定しなければならず、ことに表現の自由の保障は、われわれ個人が価値ありと信ずるところを自由に表現することができ、したがつて他人にそれを知る自由が与えられるところにその意義があるのであつて、その表現される内容が真に価値のあるものであるかどうか、真に優秀なものであるかどうかは必ずしも問うところではないことに留意しなければならない。したがつて、裁判所は作品のもつ思想性等の重要度を判断するに当つても、必ずしもその作品の真の価値や優秀性を判定する要はないのであつて、表現の自由を保障する憲法の趣旨にかんがみ、弱いわいせつ性のある部分とともに、その作品全体を公表することに意義が認められる程度の思想性等が具備しているかどうかを判断すれば足り、また、この程度の判断をすることは必要である。以上のようにして、裁判所は、作品の真の価値や優秀性を判定する必要はなく、また、作品に思想性等が認められたからといつて、その頒布行為等を許容しなければならないものではない。たとえば、いわゆる春本にも思想性等を伴うものがありえようが、そのような思想性等が作品において占める重要度は、通常、わいせつ性のある部分の占める重要度より高いとは考えられないから、その頒布行為等は許されるべきではない。また、わいせつの文書としての取締を免れるためことさらに思想性等のある部分を付加したようなものも同様であり、作品がそのようなものであるかどうかは、著作者の作品に対する態度、発行者の販売方法その他の事情から容易にこれを知ることができるであろう。要するに、以上に述べた程度の判断は、裁判所としてこれをしなければならず、また、よくすることができるものと信ずる。この意味において、原判決が、裁判所は文書のわいせつ性を判断する職責を有するが、文書のもつ思想性等を判断する職責はないと判示しているのは、いわゆるチヤタレー判決に倣つたものであるが、右に説示したところにてい触する限度において正当ではなく、憲法二一条の表現の自由の要請を過少評価したものというほかはない。
 (ロ)これを本件につきみるに、本件訳書の原著「ジユリエット物語あるいは悪徳の栄え」が一般に思想小説といわれ、右著作を初めとするサドの著作が、フランス文学史の空白を埋めるものとして高い評価をえつつあるばかりでなく、その革命思想ないしユートピア思想は、社会思想史的分野でも、また医学心理学的領域でも、さらにシユールリアリズム、実存主義のごとき今世紀に拾頭した芸術運動、思想運動中でも、きわめて重要な意義を認められつつあること、および本件訳書の原著作は、サドの思想を最も完全な形で現わしたものであつて、サドの研究にとつて欠くことのできないものであることは、第一審におけるいわゆる専門家証人の証言に基づき第一審判決が認定判示しているとおりである。そして、本件訳書の右のような思想性、芸術性は、前示(い)の摘録(ハ)の部分によつて明らかにされているのであるが、同摘録(イ)の部分(および(ロ)の部分)は、右(ハ)の部分と不可分的に結びついて作品の思想性、芸術性を高めていると認められるから、(イ)の部分を削除すれば本件作品の前示のような思想性、芸術性はおのずから損なわれることとなるものといわなければならない。しかも、本件訳書の前示摘録(イ)の部分につき仮りにわいせつ性が認められるとしても、さきに(い)において説示したところに照せば、そのわいせつ性は弱いものというほかはなく、本件訳書において右わいせつ性のある部分の占める重要度は、思想性、芸術性のある部分の占める重要度に比し低いものといわなければならない。そうであれば、表現の自由を尊重する立場から、本件訳書は、いわゆる専門家に対してはもちろん、一般社会人に対しても、これに接する機会を与えることが相当であり、したがつて、本件訳書を販売し、または販売の目的でこれを所持した被告人らの行為に可罰性を認めることは相当なこととは思われない。しからば、被告人らの右行為に対し刑法一七五条を適用して有罪の判決をした原審は、憲法二一条の解釈を誤つた結果、刑法一七五条の適用を誤つたものと認められるから、所論は理由あるに帰し、原判決は破棄を免れない。

三、よつて、原判決を破棄し、刑訴法四一三条但書に則り、被告人らに対し無罪の判決をするのが相当であると思料する。