サド裁判(Ⅲ)


裁判官田中二郎の反対意見(続き)
三、次に、具体的に本件についてみるに、本訳書の原著「悪徳の栄え」は、マルキ・ド・サド(一七四〇―一八一四)の代表作ともいうべき作品であつて、「一八世紀ヨーロッパの精神的潮流となつた素朴な進歩主義や性善説に立つ啓蒙思想、腐敗堕落したキリスト教文明に真向から挑戦し、人間性にひそむ暗黒面を徹底的に摘発し、既成の道徳、宗教、社会秩序を根底から疑い、世俗的な価値観を打破して、人間性の本質に迫ろうとする思想小説である」とされている。本件訳書はその抄訳であつて、原著を約三分の一につづめたもので、正続二篇に分かれるが、本件で起訴されたのは、その続篇「悪徳の栄え(続)ージユリエツトの遍歴―」である。
 この作品を全体としてみた場合に、思想的・文学的に価値のある作品であることは、検察官においても、これを争わず、第一審判決も、この作品の芸術的・思想的意義を認めている。ところで、この作品を全体としてみて、猥褻性を有するものといえるかどうか、その芸術性・思想性にもかかわらず、その猥褻性の故に刑法一七五条にいう猥褻文書に該当するといえるかどうか、が問題である。
 この作品のうちには、ある部分だけを抽出すれば、猥褻性を帯びているもののあることは否定し得ないが、それとても、横田裁判官の指摘されているとおり、その内容は、概して、空想的・非現実的・異常的であり、むしろ、その前後に残忍・醜悪な場面の描写が続き、一般読者に猥褻感とは異質の強い不快の念を抱かせ、そのため、一般読者に与えるはずの猥褻感が著しく減殺されており、さらに、サドが登場人物の口を通じて彼一流の思想・哲学を語らせている部分が相当に多いことも、その猥褻性を減殺するうえに大いに役立つている。このような見地からいつて、本訳書は、刑法一七五条にいう猥褻の要素を十分に具有するものと断定することに大きな疑問を抱かざるを得ない。
 しかし、この点はしばらくおいて、この作品が仮りにいくらかの猥褻の要素をもつているとしても、刑法一七五条にいう猥褻文書に該当するかどうかは、その作品のもつ芸術性・思想性およびその作品の社会的価値との関連において判断すべきものであるとする前叙の私の考え方からすれば、これを否定的に解しなければならない。すなわち、この作品は、芸術性・思想性をもつた社会的に価値の高い作品であることは、一般に承認されるところであり、原著者については述べるまでもないが、訳者である被告人Bは、マルキ・ド・サドの研究者として知られ、その研究者としての立場で、本件抄訳をなしたものと推認され、そこに好色心をそそることに焦点をあわせて抄訳を試みたとみるべき証跡はなく、また、販売等にあたつた被告人Cにおいても、本訳書に関して、猥褻性の点を特に強調して広く一般に宣伝・広告をしたものとは認められない。
 以上の諸点を総合して判断すると、この作品の中に猥褻の要素が含まれているとしても、作品全体としてみた場合に、その芸術的・思想的意義が高く評価され、百数十年の長きにわたつて、幾多の波乱をまき起こしながらも、あらゆる批判に打ち克つてきた原著の抄訳たる本件訳書は、今にわかに、その猥褻性を強調して抹殺し去られるべきものではない。さきに述べたように、表現の自由や学問の自由を尊重する憲法の趣旨に照らし、国民文化の発展の程度や人間をとりまく生活環境の推移に鑑み、本書公刊の諸条件のもとに予想され得た読者層から考えて、本件訳書は、直ちに、刑法一七五条による処罰の対象としてとりあげられるべきものではなく、その販売・頒布・所持の自由は、保障されて然るべきであると考える。
 然るに、本件訳書が刑法一七五条にいう猥褻文書に該当するものとして、被告人らの刑事責任を肯定した原審の判断は、憲法二一条、二三条の解釈を誤つた結果、刑法一七五条の解釈適用を誤つたものと認められるから、所論は理由があるに帰し、原判決は破棄を免れないと、私は考える。
 前叙のような見地から、私は、原判決を支持する多数意見の結論のみならず、その理由についても、賛成することができない。