裁判官田中二郎の反対意見(続き)
二、そこで、次に刑法一七五条にいう猥褻の概念は、言論表現の自由や学問の自由を保障する憲法との関係で、どのように理解されるべきであるかの問題に移ることとする。
この点について、多数意見は、原審が、昭和三二年三月一三日の大法廷判決(いわゆるチヤタレー事件の判決)に従つて、猥褻性の芸術性・思想性とは、その属する次元を異にする概念であり、芸術的・思想的の文書であつても、これと次元を異にする道徳的・法的の面において猥褻性を有するものと評価されることは不可能ではなく、その文書が、その有する芸術性・思想性にかかわらず猥褻性ありと評価される以上、刑法一七五条の適用を受け、その販売および所持が罪とされることは当然である旨判示したのを、支持すべきものとしている。
いわゆるチヤタレー判決およびこの判決の趣旨に従つた本件原判決は、猥褻性の概念は、その文書の芸術性・思想性とは次元を異にするもので、法的な面においては独自に判断され得べきものとしており、多数意見も、基本的には、この見解を支持していることは前叙のとおりである。ところが、本判決の多数意見は、これに加えて、「もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺戟を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられる」としているが、この表現は、猥褻概念の相対性を認める趣旨なのであろうか。多数意見の中には、そのほかにも、猥褻概念の相対性を認めるかのごとき表現が窺われるのであるが、若し、そうだとすれば、チヤタレー判決のとつた基本的立場を一歩踏み出し、猥褻概念の相対性を認めつつ、結論において、チヤタレー判決に従つた原判決を支持するというのであろうか。多数意見の説示には、二つの考え方が混淆し、必ずしも首尾一貫しないものがあるように思われる。
それでは、猥褻の概念は、どのように理解されてきたか、また、理解されるべきであろうか。
最高裁判所は、従来猥褻というのは、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的差恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」と定義し、これを具体的事件にあてはめ、右の三要素を有する文書は猥褻文書であると判断してきた。猥褻概念そのものの定義として、右の三要素をあげることに、私は、別段、反対するつもりはない。しかし、このような概念を絶対的なものとして、これを一律にあてはめ、これに該当する文書をすべて猥褻文書として処罰の対象とすべきものとする考え方が果たして妥当であるかどうかは、頗る疑問としなければならない。
およそ文書等が性若しくは性行為を題材としているときは、それが科学的・思想的・芸術的性格をもつものであつても、見方によつては、猥褻の要素を有するものが少なくないことは、通常見かけられるところであつて、この猥褻の要素を抽出し、当該文書等を直ちに猥褻文書等と断定し、これを処罰の対象とすべきものであるかどうかが、まさに問題とされなければならないのである。
この問題をどのように処理すべきかは、言論表現の自由や学問の自由の保障との関連において、内外に通じ、多年にわたつて苦悩してきたところであるから、内外の学説判例を通して、その苦悩を跡づけ、その判断を下すにあたつては、十分に慎重を期さなければならない。こういう見地に立ち、私は、次に述べるような種々の観点から、--理論上には、一応、次のような種々の観点を区別することができるが、実際上には、相互に関連性をもつており、全体を総合して判断しなければならないことはもちろんである。--猥褻概念の相対性を認めるべきものと考えるのであつて、この点において、多数意見とその見解を異にすることを明らかにしなければならない。
(1)まず第一に、猥褻文書等にあたるかどうかを判断するにあたつては、文書等そのものの面からみて、猥褻性の強弱ということが問題とされなければならないし、これを受けとつてこれを評価する人間の面からみて、どういう人間を基準とすべきかが問題とされなければならない。
猥褻という概念は、抽象的には、一応、チヤタレー判決が判示しているように、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な差恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう。」といつて差支えないであろう。しかし、具体的に性若しくは性行為を題材とする文書等についてみると、多かれ少なかれ、右の猥褻概念の要素をもつものが多いのであつて、猥褻性があるといつても、その猥褻性の程度には、強弱さまざまのものがあることを否定し得ない。およそ猥褻の要素が少しでも含まれておれば、処罰の対象とされるべき猥褻文書等に該当するとはいえないであろう。また、これを受けとつてこれを評価する人間の面からいえば、普通一般には、普通人、すなわち一般社会の平均人を基準として、これを判断すべきであろうが、この場合でも、人間の性情そのものが、所によつて異なり、時とともに推移するものであり、人間をとりまく環境の相違や変化に応じて、一律には断じがたいものがある。ある時・所において猥褻文書等と判断されるべきものが、別のある時・所においては、環境等の差異に基づき、猥褻かどうかの判断に差異を生ずることも決してないわけではない。殊に、当該文書がその表現方法等からみて、科学者や文学者等、特定の者を対象としている場合のように、その向けられている対象の相違によつても、それを猥褻文書とみるべきかどうかの判断が変つてこなければならないであろう。ということは、右にあげた猥褻の定義も、これを実質的・内容的にみると、絶対不変の固定的な尺度又は基準を示すものではなく、相対的可変的なものとみるべきことを示しているものといつてよいであろう。
なお、特定の文書等の猥褻性の有無を判断するにあたつては、当該文書等を全体として判断の対象としなければならないことはいうまでもない。このことは、多数意見も、一応、これを承認しているので、ここでは、詳述することは差し控えることとする。
(2)第二に、本件で特に重要な問題として注意すべきは、特定の文書等が有する科学性・思想性・芸術性―これらの点についても、その程度・態様等に種々ニユアンスの差があることはいうまでもない。―と当該文書等の猥褻性とは、次元を異にする問題と解すべきか、それとも、当該文書等の猥褻性は、その科学性・思想性・芸術性との関連において、相対的に判断されるべきかという問題である。この点について、最高裁判所は、さきにチヤタレー判決において、文書等の科学性・思想性・芸術性と猥褻性とは、次元を異にするとして、ここでいう猥褻概念の相対性を否定してきた。ところが、本件の多数意見は、さきにも引用したように、「もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられる」として、一見、猥褻概念の相対性を認めるかのごとき表現をしているが、これに続けて、「右のような程度に猥褻性が解消されないかぎり、芸術的・思想的価値のある文書であつても、猥褻の文書としての取扱いを免れることはできない、」といい、「当裁判所は、文書の芸術性・思想性を強調して、芸術的・思想的価値のある文書は猥褻の文書として処罰の対象とすることができないとか、……文書のもつ猥褻性によつて侵害される法益と芸術的・思想的文書としてもつ公益性とを比較衡量して、猥褻罪の成否を決すべしとするような主張は、採用することができない。」と判示し、結局、チヤタレー判決に従つて、芸術的・思想的価値の有無と猥褻性の有無とは次元を異にする問題だとする原審の判断を支持しているのである。
右の多数意見は、一見、猥褻概念の相対性を否定しないかのような説示をしながら、その実は、チヤタレー判決の趣旨を踏襲し、これから一歩も出てはいないようにも解されるのであつて、却つて、チヤタレー判決に比して首尾一貫を欠く嫌いを免れず、この多数意見の論理および結論については、疑問を抱かざるを得ない。
もともと、性若しくは性行為を題材とする芸術作品や思想作品(科学作品も同じ。)は、色川裁判官が指摘されているように、人間の根源的な欲求の一つである性欲を追求して人間心理の深層にメスを入れ、その点にひそむ人間性を描こうとするものであるから、平凡な一般社会人の生活や感情とは相容れない事象をも題材とせざるを得ないことが少なくなく、その限りにおいて、多かれ少なかれ、猥褻性の要素を帯びることがあることも否定し得ないのであるが、他面、それによつて、人間の真の欲望や心理を浮彫りにし、時には、社会の罪悪に対する鋭い批判のメスを加えることによつて、人間性や人間関係の本質の自覚を促し、社会文化の発展の契機を与えることともなるのであつて、そうした芸術作品や思想作品等の価値を無視したり看過したりすることはできない。若し、これらの作品が猥褻性の要素をもつているというだけの理由で、その発表が禁圧されることになれば、価値の高い芸術作品や思想作品等の少なからざるものが抹殺されることになり、表現の自由や学問の自由が不当に抑圧され、文化的価値を享受する途も閉ざされることにならざるを得ないであろう。
このような点を総合して考えると、右に述べたような芸術作品や思想作品等については、それらが、たとえ猥褻性の要素をもつているとしても、作品全体としてこれを評価し、刑法一七五条にいう猥褻文書等に該当しないと解すべき場合が多いというべきであろう。この意味において、刑法一七五条にいう猥褻の概念は、一般社会の平均人を基準として判断する場合においても、その社会の文化の発展の程度その他諸々の環境の推移に照応し、その作品等の芸術性・思想性等との関連において、評価・判断されるべきもので、この意味においても、猥褻概念の相対性が認められなければならないと、私は考えるのである。
(3)第三に、猥褻文書として処罰の対象とされるべきものかどうかは、当該文書等に客観的に現われている作者の姿勢・態度や、その販売・頒布等にあたつての宣伝・広告の方法等との関係においても、相対的に判断されなければならない。若し、その作品が、猥褻の要素にもつぱら焦点をあわせ、人間の好色心をそそることに中心を置いたような場合であれば、仮りに文書等そのものとしては科学性・思想性・芸術性が認められ、これらの点において相当の価値のあるものであつても、刑法一七五条にいう猥褻文書に該当するものといわなければならないことが多いであろうし、文書等の販売・頒布等にあたる者が、猥褻性の要素を特に抽出し、そこに焦点をあわせて宣伝・広告・陳列し、ために、当該文書等が低俗な興味の対象としてのみ受け取られるような場合には、そのことの故に、元来、科学性・思想性・芸術性をもつた、相当に価値のある作品の販売・頒布等であつても、刑法にいう猥褻文書の販売・頒布等として処罰を免れないこととなるであろう。したがつて、刑法一七五条にいう猥褻文書に該当するかどうかは、右の諸点との関連において、相対的に判断されなければならないのである。
これを要するに、刑法一七五条にいう猥褻文書として処罰の対象とされるべきかどうかの問題は、猥褻の概念を絶対普遍のものとして、一律的に判断すべきではなく、右に述べたように、種々の意味におけるその概念の相対性を承認し、そのような観点を総合的に考察して、なおかつ、猥褻文書に該当するといえるかどうかについて、慎重に判断されなければならないと考える。
この点について、多数意見は、原審が、昭和三二年三月一三日の大法廷判決(いわゆるチヤタレー事件の判決)に従つて、猥褻性の芸術性・思想性とは、その属する次元を異にする概念であり、芸術的・思想的の文書であつても、これと次元を異にする道徳的・法的の面において猥褻性を有するものと評価されることは不可能ではなく、その文書が、その有する芸術性・思想性にかかわらず猥褻性ありと評価される以上、刑法一七五条の適用を受け、その販売および所持が罪とされることは当然である旨判示したのを、支持すべきものとしている。
いわゆるチヤタレー判決およびこの判決の趣旨に従つた本件原判決は、猥褻性の概念は、その文書の芸術性・思想性とは次元を異にするもので、法的な面においては独自に判断され得べきものとしており、多数意見も、基本的には、この見解を支持していることは前叙のとおりである。ところが、本判決の多数意見は、これに加えて、「もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺戟を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられる」としているが、この表現は、猥褻概念の相対性を認める趣旨なのであろうか。多数意見の中には、そのほかにも、猥褻概念の相対性を認めるかのごとき表現が窺われるのであるが、若し、そうだとすれば、チヤタレー判決のとつた基本的立場を一歩踏み出し、猥褻概念の相対性を認めつつ、結論において、チヤタレー判決に従つた原判決を支持するというのであろうか。多数意見の説示には、二つの考え方が混淆し、必ずしも首尾一貫しないものがあるように思われる。
それでは、猥褻の概念は、どのように理解されてきたか、また、理解されるべきであろうか。
最高裁判所は、従来猥褻というのは、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的差恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」と定義し、これを具体的事件にあてはめ、右の三要素を有する文書は猥褻文書であると判断してきた。猥褻概念そのものの定義として、右の三要素をあげることに、私は、別段、反対するつもりはない。しかし、このような概念を絶対的なものとして、これを一律にあてはめ、これに該当する文書をすべて猥褻文書として処罰の対象とすべきものとする考え方が果たして妥当であるかどうかは、頗る疑問としなければならない。
およそ文書等が性若しくは性行為を題材としているときは、それが科学的・思想的・芸術的性格をもつものであつても、見方によつては、猥褻の要素を有するものが少なくないことは、通常見かけられるところであつて、この猥褻の要素を抽出し、当該文書等を直ちに猥褻文書等と断定し、これを処罰の対象とすべきものであるかどうかが、まさに問題とされなければならないのである。
この問題をどのように処理すべきかは、言論表現の自由や学問の自由の保障との関連において、内外に通じ、多年にわたつて苦悩してきたところであるから、内外の学説判例を通して、その苦悩を跡づけ、その判断を下すにあたつては、十分に慎重を期さなければならない。こういう見地に立ち、私は、次に述べるような種々の観点から、--理論上には、一応、次のような種々の観点を区別することができるが、実際上には、相互に関連性をもつており、全体を総合して判断しなければならないことはもちろんである。--猥褻概念の相対性を認めるべきものと考えるのであつて、この点において、多数意見とその見解を異にすることを明らかにしなければならない。
(1)まず第一に、猥褻文書等にあたるかどうかを判断するにあたつては、文書等そのものの面からみて、猥褻性の強弱ということが問題とされなければならないし、これを受けとつてこれを評価する人間の面からみて、どういう人間を基準とすべきかが問題とされなければならない。
猥褻という概念は、抽象的には、一応、チヤタレー判決が判示しているように、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な差恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう。」といつて差支えないであろう。しかし、具体的に性若しくは性行為を題材とする文書等についてみると、多かれ少なかれ、右の猥褻概念の要素をもつものが多いのであつて、猥褻性があるといつても、その猥褻性の程度には、強弱さまざまのものがあることを否定し得ない。およそ猥褻の要素が少しでも含まれておれば、処罰の対象とされるべき猥褻文書等に該当するとはいえないであろう。また、これを受けとつてこれを評価する人間の面からいえば、普通一般には、普通人、すなわち一般社会の平均人を基準として、これを判断すべきであろうが、この場合でも、人間の性情そのものが、所によつて異なり、時とともに推移するものであり、人間をとりまく環境の相違や変化に応じて、一律には断じがたいものがある。ある時・所において猥褻文書等と判断されるべきものが、別のある時・所においては、環境等の差異に基づき、猥褻かどうかの判断に差異を生ずることも決してないわけではない。殊に、当該文書がその表現方法等からみて、科学者や文学者等、特定の者を対象としている場合のように、その向けられている対象の相違によつても、それを猥褻文書とみるべきかどうかの判断が変つてこなければならないであろう。ということは、右にあげた猥褻の定義も、これを実質的・内容的にみると、絶対不変の固定的な尺度又は基準を示すものではなく、相対的可変的なものとみるべきことを示しているものといつてよいであろう。
なお、特定の文書等の猥褻性の有無を判断するにあたつては、当該文書等を全体として判断の対象としなければならないことはいうまでもない。このことは、多数意見も、一応、これを承認しているので、ここでは、詳述することは差し控えることとする。
(2)第二に、本件で特に重要な問題として注意すべきは、特定の文書等が有する科学性・思想性・芸術性―これらの点についても、その程度・態様等に種々ニユアンスの差があることはいうまでもない。―と当該文書等の猥褻性とは、次元を異にする問題と解すべきか、それとも、当該文書等の猥褻性は、その科学性・思想性・芸術性との関連において、相対的に判断されるべきかという問題である。この点について、最高裁判所は、さきにチヤタレー判決において、文書等の科学性・思想性・芸術性と猥褻性とは、次元を異にするとして、ここでいう猥褻概念の相対性を否定してきた。ところが、本件の多数意見は、さきにも引用したように、「もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられる」として、一見、猥褻概念の相対性を認めるかのごとき表現をしているが、これに続けて、「右のような程度に猥褻性が解消されないかぎり、芸術的・思想的価値のある文書であつても、猥褻の文書としての取扱いを免れることはできない、」といい、「当裁判所は、文書の芸術性・思想性を強調して、芸術的・思想的価値のある文書は猥褻の文書として処罰の対象とすることができないとか、……文書のもつ猥褻性によつて侵害される法益と芸術的・思想的文書としてもつ公益性とを比較衡量して、猥褻罪の成否を決すべしとするような主張は、採用することができない。」と判示し、結局、チヤタレー判決に従つて、芸術的・思想的価値の有無と猥褻性の有無とは次元を異にする問題だとする原審の判断を支持しているのである。
右の多数意見は、一見、猥褻概念の相対性を否定しないかのような説示をしながら、その実は、チヤタレー判決の趣旨を踏襲し、これから一歩も出てはいないようにも解されるのであつて、却つて、チヤタレー判決に比して首尾一貫を欠く嫌いを免れず、この多数意見の論理および結論については、疑問を抱かざるを得ない。
もともと、性若しくは性行為を題材とする芸術作品や思想作品(科学作品も同じ。)は、色川裁判官が指摘されているように、人間の根源的な欲求の一つである性欲を追求して人間心理の深層にメスを入れ、その点にひそむ人間性を描こうとするものであるから、平凡な一般社会人の生活や感情とは相容れない事象をも題材とせざるを得ないことが少なくなく、その限りにおいて、多かれ少なかれ、猥褻性の要素を帯びることがあることも否定し得ないのであるが、他面、それによつて、人間の真の欲望や心理を浮彫りにし、時には、社会の罪悪に対する鋭い批判のメスを加えることによつて、人間性や人間関係の本質の自覚を促し、社会文化の発展の契機を与えることともなるのであつて、そうした芸術作品や思想作品等の価値を無視したり看過したりすることはできない。若し、これらの作品が猥褻性の要素をもつているというだけの理由で、その発表が禁圧されることになれば、価値の高い芸術作品や思想作品等の少なからざるものが抹殺されることになり、表現の自由や学問の自由が不当に抑圧され、文化的価値を享受する途も閉ざされることにならざるを得ないであろう。
このような点を総合して考えると、右に述べたような芸術作品や思想作品等については、それらが、たとえ猥褻性の要素をもつているとしても、作品全体としてこれを評価し、刑法一七五条にいう猥褻文書等に該当しないと解すべき場合が多いというべきであろう。この意味において、刑法一七五条にいう猥褻の概念は、一般社会の平均人を基準として判断する場合においても、その社会の文化の発展の程度その他諸々の環境の推移に照応し、その作品等の芸術性・思想性等との関連において、評価・判断されるべきもので、この意味においても、猥褻概念の相対性が認められなければならないと、私は考えるのである。
(3)第三に、猥褻文書として処罰の対象とされるべきものかどうかは、当該文書等に客観的に現われている作者の姿勢・態度や、その販売・頒布等にあたつての宣伝・広告の方法等との関係においても、相対的に判断されなければならない。若し、その作品が、猥褻の要素にもつぱら焦点をあわせ、人間の好色心をそそることに中心を置いたような場合であれば、仮りに文書等そのものとしては科学性・思想性・芸術性が認められ、これらの点において相当の価値のあるものであつても、刑法一七五条にいう猥褻文書に該当するものといわなければならないことが多いであろうし、文書等の販売・頒布等にあたる者が、猥褻性の要素を特に抽出し、そこに焦点をあわせて宣伝・広告・陳列し、ために、当該文書等が低俗な興味の対象としてのみ受け取られるような場合には、そのことの故に、元来、科学性・思想性・芸術性をもつた、相当に価値のある作品の販売・頒布等であつても、刑法にいう猥褻文書の販売・頒布等として処罰を免れないこととなるであろう。したがつて、刑法一七五条にいう猥褻文書に該当するかどうかは、右の諸点との関連において、相対的に判断されなければならないのである。
これを要するに、刑法一七五条にいう猥褻文書として処罰の対象とされるべきかどうかの問題は、猥褻の概念を絶対普遍のものとして、一律的に判断すべきではなく、右に述べたように、種々の意味におけるその概念の相対性を承認し、そのような観点を総合的に考察して、なおかつ、猥褻文書に該当するといえるかどうかについて、慎重に判断されなければならないと考える。