澁澤龍彦誕生日-サド裁判 (Ⅰ)-


本日、5月8日は澁澤龍彦の誕生日ですね。このところワイセツに関して記事にしていますので、今日は、

事件名:猥褻文書販売、同所持被告事件
裁判年月日: 昭和44年10月15日
法廷名: 最高裁判所大法廷

すなわち、「悪徳の栄え事件」の判決について書いてみようと思います。

一 芸術的・思想的価値のある文書であつても、これを猥褻性を有するものとすることはさしつかえない。
二 文書の個々の章句の部分の猥褻性の有無は、文書全体との関連において判断されなければならない。
三 憲法二一条の表現の自由や同法二三条の学問の自由は、絶対無制限なものではなく、公共の福祉の制限の下に立つものである。
四 第一審裁判所が法律判断の対象となる事実を認定し、法律判断だけで無罪を言い渡した場合には、控訴裁判所は、改めて事実の取調をすることなく、刑訴法四〇〇条但書によつて、みずから有罪の判決をすることができる。
(一につき,補足意見および意見,一,三につき,反対意見がある。)

以上により、第二審の判決を支持、被告人の上告を棄却しています。澁澤龍彦は、この結果、罰金刑を受けています。本人は懲役刑にでもなると思っていたふしがありますが…(笑)

注目すべきは、このカッコ内の「反対意見」でしょう。
…ということで、先ほど、判決理由全文をダウンロードしましたが、細かい字がぎっしりで16ページに及ぶもので読みづらいので、適宜、改行を加えたり項目ごとにまとめたりしています。

なお、このように、最高裁判所の判決文の場合には、各裁判官が個別意見を述べることができます。意見には一般に補足意見、意見、反対意見があります。(Wikiより)

 補足意見とは、多数意見に賛成だが、意見を補足するもの。
 意見とは、多数意見と結論は同じだが、理由付けが異なるもの。
 反対意見とは、多数意見と異なる意見をいう。

「悪徳の栄え事件」の場合には、一件の補足意見、一件の意見、そして五件もの反対意見があったようです。その五件の反対意見とも、原判決を棄却し、被告人らに無罪の判決をするが相当としています。そのうちのひとつ、裁判官田中二郎の反対意見を以下に記載します。長いのでニ三回に分割します。
裁判官田中二郎の反対意見は、次のとおりである。
 弁護人大野正男ほか三名の上告趣意第一点および第三点について判示する多数意見に対して、私は、種々の疑問を感じるのであるが、中でも、憲法の保障する言論出版その他の表現の自由や学問の自由およびこれらの自由の制限に関する基本的な考え方、したがつてまた、刑法一七五条の定める猥褻の概念の捉え方に対しては、にわかに賛成しがたい。以下、その理由について述べることとする。

一、多数意見も、「出版その他の表現の自由や学問の自由は、民主主義の基礎をなすきわめて重要なものである」ことを承認している。しかし、多数意見は、それは、「絶対無制限なものではなく、その濫用が禁ぜられ、公共の福祉の制限の下に立つものである」とし、この見地に立つて、「芸術的・思想的価値のある文書についても、それが猥褻性をもつものである場合には、性生活に関する秩序および健全な風俗を維持するため、これを処罰の対象とすることが国民生活全体の利益に合致するものと認められる」ことを理由として、これらの自由に対する制限禁止やこれに対する違反の処罰が、憲法二一条、二三条に違反するものということはできない旨判示している。
 右の論理は、一見、もつともと思わせるものがあるが、この考え方の根底には、言論出版その他の表現の自由や学問の自由も、「公共の福祉」の見地からみて必要がある場合には、これを制限することができることは当然であるという、従来、最高裁判所がとつてきた伝統的な考え方が流れているように思われる。この点に、私は、まず第一の疑問を抱かざるを得ない。
 私も、もとより、言論出版その他の表現の自由や学問の自由が絶対無制限のものと考えているわけではなく、したがつて、刑法一七五条が違憲無効であるとまで考えているわけでもない。しかし、言論出版その他の表現の自由や学問の自由を保障する憲法の規定(二一条・二三条)のもつ意味の評価の点において、したがつて、これらの自由に対する制約の限界に関する考え方の点において、多数意見とは見解を異にする。すなわち、憲法二一条の保障する言論出版その他一切の表現の自由や、憲法二三条の保障する学問の自由は、憲法の保障する他の多くの基本的人権とは異なり、まさしく民主主義の基礎をなし、これを成り立たしめている、きわめて重要なものであつて、単に形式的に言葉のうえだけでなく、実質的に保障されるべきものであり、「公共の福祉」の要請という名目のもとに、立法政策的な配慮によつて、自由にこれを制限するがごときことは許されないものであるという意味において、絶対的な自由とも称し得べきものであり、公共の福祉の要請に基づき法律によつて制限されることの予想されている職業選択の自由や居住移転の自由などとは、その性質を異にするものと考えるのである。表現の自由や学問の自由の保障は、これを裏がえしていえば、読み、聞き、見、かつ、知る自由や学ぶ自由の保障を意味するのであつて、国会の多数の意見や政府の見解によつて、「公共の福祉」の要請という名目のもとに、言論表現の自由がたやすく制限され得たり、学問の自由に制限が加えられ得たり、ひいては、読み、聞き、見、かつ、知る自由や学ぶ自由が抑制されたりしたのでは、民主主義の基本的原理が根底からゆすぶられ、社会文化の発展や真理の探究が不当に抑圧されることになるおそれを免れ得ないからである。
 右のようにいつたからといつて、私も、決して、これらの自由が絶対無制限のものであることを主張するのではない。これらの自由にも、必然的にこれらに伴うべき内在的な制約が存することは、これを否定することができない。何がこの意味でのこれらの自由の内在的制約であるかについては、後に述べるが、この意味での内在的制約のみがこれらの自由に対する制約として承認され得る限界とみるべきであつて、この限界を超えて、「公共の福祉」の要請に基づくというような名目のもとに、立法政策的ないし行政政策的見地から、外来的な制限を課することを目的とする法律の規定やその執行としての処分のごときは、憲法の保障するこれらの自由に対する侵害として許されないところというべきである。
 ところで、右にいう内在的制約とは何か、どういう制約が内在的制約として承認され得るか等の問題は、頗るむずかしい問題であり、一般的・抽象的な基準を立ててこれに答えることは困難であるが、それは、これらの自由を保障している憲法の趣旨から汲みとられるほかはない。これらの自由は、元来、これを主張する者が相互に他の自由を尊重し合い、自由の共存を認め合うことを前提とし、それが濫用にわたることなく、社会の通念を基準として、社会一般の正義道徳の観念に違反し、ひいてはこれに現実の危険を及ぼすようなことのない規律を伴う自由としてのみ保障されたものと解すべきであろう。したがつて、これらの自由を各人に保障するために必然的に伴う規律は、その内在的な制約として、これを尊重しなければならず、これに違反するのは、自由の濫用にほかならないのである。しかし、この意味での制約は、政策的見地から外来的に定められ得べきものではなく、まさに自由に内在する制約である限りにおいて、自由の制約として承認されるのである。そして、具体的に、これらの自由の内在的制約として承認されるべきものであるかどうかは、最終的には、具体的事案に即して、裁判所によつて判断されなければならない。
 言論表現の自由にしろ、学問の自由にしろ、右に述べたような意味における内在的制約に服すべきものであることは、これを認めなければならないのであつて、他人の名誉を毀損する行為とか猥褻文書を販売・頒布する行為とかを処罰の対象としているのも、右の意味での内在的な制約に反する行為を対象としている趣旨と解すべきであり、また、そう解し得る限りにおいて、その合憲性が承認されるべきものと考える。
 刑法一七五条の定める猥褻罪の処罰規定も、右の言論表現の自由や学問の自由に内在する制約を具体化したものと解し得る限りにおいてのみ、違憲無効であるとの非難を免れ得るのであつて、若し、その規定が、「性生活に関する秩序および健全な風俗を維持するため、これを処罰の対象とすることが国民生活全体の利益に合致する」という理由のもとに、外来的な政策的目的実現の手段としての意味をも、あわせもたしめられるべきものとすれば、それは、もはや、自由に内在する制約の範囲を逸脱するおそれがあり、したがつて、右規定も違憲の疑いを生ずるものといわなければならない。
 しかし、法律の規定は、元来、可能な限り、憲法の精神に即し、これと調和し得るように合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、刑法一七五条の猥褻罪に関する規定は、憲法の保障する表現の自由や学問の自由に内在する制約の一つの具体的表現にすぎないものとして、憲法の諸規定と調和し得るように解釈されなければならない。そうとすれば、刑法一七五条にいう猥褻の概念も、おのずから厳格に限定的に解釈されるべきものであり、その規定の具体的適用にあたつても、言論表現の自由や学問の自由を保障する憲法の精神に背馳することのないように配慮されなければならないのである。