鳩山氏は草なぎ氏の降板発言を撤回せよ


 このところ、日本そのものの空気がたぶんに息苦しく、まじめな人ほどストレス等で鬱病をはじめとする病にかかるような気がしている。それは、何か不祥事を起こせばキャンペーン報道をおそれ、その軽重に関係なく社会的制裁をうけさせる、また関係者も自らの意思に関係なく報道する側に印象を良くするのかが重要で不祥事を起こした企業または個人を排斥する等々、そこには何となく全体主義の匂いがする。報道されることが全て真実なのか、その報道にに影響されている人々の意見が全て善なのか…、ある事件がおこったらその背景はどうなのか調べようともせず短絡的な判断で報道する…本ブログでも書いているがうわべのだけの感覚だけでの発言、判断、処置が多すぎはしまいか。

 その結果、抑圧されたものが多すぎ、無差別の、狂気の、動機のない、残酷な犯罪は蔓延するが、一方で、いわゆる「正気の乱」もない代わりに「真の自由」もない、去勢されたように黙々と管理社会を生きているだけの人々…。その管理される側の楽しみは、きっと、世界経済を崩壊させかねないマネーゲームへの参加なのか…、さもなくば、過剰な飲酒をし全裸で騒ぐことなのか…。

 さて、草なぎ氏のことであるが、それほど、地上デジタル放送推進を国家の一大プロジェクトと位置付けるのであれば、国も確固たる信念をもってメーンキャラクターを選んでいるはずである。それをあっさりと切り捨てれば事は済むのか。言い換えればその程度の切捨てのみで事が済む程度の重要度しかメーンキャラクターには持たせていないのか。
 流行のリスク管理も重要ではあるけれど、一番肝心の国家全体のリスク管理が北朝鮮の動向で右往左往する程度の状況下では、この程度のプロジェクトではできているはずはないことは明々白々であり、一蓮托生の気概がなければ、誰を選んでも同じである。不祥事に敏感な民間企業にそれを求めるのは酷であろうが、現状の改革をしようと思えばできるのが政治家である。更に言えばメーンキャラクターの降板で、何を守るのか? 何れにせよ、重要なのは、「なま」の人間性ではないのか。それを尊重できずにして国は何を守れるのか? 国家が規格に合わない人間は排斥すれば事足りると考えているのであれば、戦時中とそれほど変わらない国家の精神構造である。民間は国家を鏡とする。

 つまり、事実関係を精査し、単に諧謔程度の話であれば、降板についての判断を撤回すべきである。あらゆる外部評価に戦々恐々としている民間はともかく、国家はしっかりとした見識を持った判断をすべきである。というか、そういう判断は政治家にしか出来ない。にもかかわらず、一般の報道と同内容を繰り返しコメントするだけでは存在価値がない。それか「草なぎ氏ごときに政治生命を賭けられない」とでも思っているのかもしれない。が、小さなことではあるがそのようなことが閉塞感を打破するきっかけとなるのではないのか。

 私も事実上推進する側にいて矛盾を承知で発言すれば、品質システム、内部統制などに代表されるように、多分に欧米発信の、無味乾燥な、人間主体というよりも紙に書かれた文書そのものが重要視されるのが現代社会である。その社会では、個人というものはそのシステムを稼動させるために存在しているに過ぎない。それをどう有効に稼動させているか、忠実に従うかが個人の評価のポイントになっている。私は、少なくとも政治家はそうであってほしくないと思っている。

 一回の失策でアウトなのか? 真面目な青年でそれも日韓関係にも貢献度が大きい、このような人材を生かさない国家とはどういう存在なのか、再考して欲しい。ずるくても政治的に何らかの効果があれば、自分の感情を抜きにしての発言で、何らかのメッセージを出してほしいものだ。