【旅行のルート】
13日: 大阪に集合→二上山の麓にある「當麻寺」→「橿原神宮前」駅で他の参加者と合流
14日: 明日香村周辺並びに「飛鳥寺」「入鹿首塚」→吉野山「金峯山寺・蔵王堂」
15日: 「吉野神宮」→「妹背山」→「法隆寺」→最寄り駅で解散
13日: 大阪に集合→二上山の麓にある「當麻寺」→「橿原神宮前」駅で他の参加者と合流
14日: 明日香村周辺並びに「飛鳥寺」「入鹿首塚」→吉野山「金峯山寺・蔵王堂」
15日: 「吉野神宮」→「妹背山」→「法隆寺」→最寄り駅で解散
13日に最初に訪れたのが、二上山(大津皇子の御墓があります)の麓にある當麻寺です。當麻寺は、天平時代に創建された寺院で、この時代に流行した双塔様式の東西両塔がそのまま残るのはこの寺だけといわれています。
私たちは「北門」あたりからこの寺に入りましたが、いきなり、右手に国宝の「曼荼羅堂」があります。そして、左手に建物が二棟、そして、正面の丘に寄り添うように東西両塔があります。その東塔や西塔のそれぞれを囲むように、小寺院が建っています。境内に入ったら何か雑然とした感じを受けます。
amaiさんにお聞きすると、正面というのは、左手の二棟の間をまっすぐ言ったところにある門であるとのこと。あとでいただいたパンフレットを見ると、「東大門」とありました。最初の左手の二棟というのは、手前が講堂、奥が金堂、とのこと。東大門からみると、右に講堂、左に金堂(裏)、前方奥に、東が正面の本堂(曼荼羅堂=一枚目の写真)ということになります。
amaiさんにお聞きすると、正面というのは、左手の二棟の間をまっすぐ言ったところにある門であるとのこと。あとでいただいたパンフレットを見ると、「東大門」とありました。最初の左手の二棟というのは、手前が講堂、奥が金堂、とのこと。東大門からみると、右に講堂、左に金堂(裏)、前方奥に、東が正面の本堂(曼荼羅堂=一枚目の写真)ということになります。
奈良時代の寺院としたら、たとえば薬師寺様式を想像してもらえばわかるように、正面(當麻寺の場合は山の方になってしまうが)に「南(大)門」があるはずで、そして、東西両塔と金堂を囲むように回廊があり、南側回廊には中門が設けられているはずです。お寺の方の説明では、確かに、正面は東西両塔の方向、山が迫っていますが、そちらに街道があり正面であったとのこと。
創建当時のままの東西両塔が残っているのに、南大門、中門、回廊がない、さらには平地ではなく起伏のある土地(自然のままの土地?)にそのまま建てられているという不思議な寺院です。パンフレットにも、そのあたりのことについては書かれていませんでした。起伏があって、回廊などははじめから無理だったのでしょうか?
創建当時のままの東西両塔が残っているのに、南大門、中門、回廊がない、さらには平地ではなく起伏のある土地(自然のままの土地?)にそのまま建てられているという不思議な寺院です。パンフレットにも、そのあたりのことについては書かれていませんでした。起伏があって、回廊などははじめから無理だったのでしょうか?
このように創建当初の伽藍は想像しにくくなっていますが、中将姫伝説と曼荼羅信仰の広まりと共に現在のような東面する曼荼羅堂を本堂とする伽藍配置になったということです。
二枚目以降の写真は、西塔に隣接する西南院で、お茶をいただいた時のものです。見事な庭園と、二箇所ある水琴窟から聞こえる透き通った音色(静かな境内ですので近くへ行けば耳を澄まさなくても聞こえます)、それにごく間近に西塔が…、しばし猛暑を忘れさせてくれます。
最初に書いたように、當麻寺は二上山の麓にあります。これを書いていて急に思い出しましたが、五木寛之に『風の王国』という小説があります。二上山が舞台の小説です。かつて、私も二上山に登ったことがあるのですが、それは、有名な「うつそみの人なるわれや明日よりは二上山をいろせとわが見む」という大来皇女の歌とともに『風の王国』を読んだこともきっかけだったような気がします。