


【旅行のルート】
13日: 大阪に集合→「橿原神宮前」駅で他の参加者と合流→二上山の麓にある「當麻寺」
14日: 明日香村周辺並びに「飛鳥寺」「入鹿首塚」→吉野山「金峯山寺・蔵王堂」
15日: 「吉野神宮」→「妹背山」→「法隆寺」→最寄り駅で解散
13日: 大阪に集合→「橿原神宮前」駅で他の参加者と合流→二上山の麓にある「當麻寺」
14日: 明日香村周辺並びに「飛鳥寺」「入鹿首塚」→吉野山「金峯山寺・蔵王堂」
15日: 「吉野神宮」→「妹背山」→「法隆寺」→最寄り駅で解散
明日香村というのはご承知の通り、京都、奈良あるいは斑鳩と異なり、現存する建造物は何もありません。ほとんどが地下の遺構と山や川の自然の風景…。でも、訪れた者は、自由にその古代ロマンに思いを馳せることができます。聖徳太子や蘇我入鹿がこの飛鳥の地で施政し、恋をし、あるときは戦場を馬で疾駆する…。
何も残っていないということはそれだけこの地が忘れ去られ荒廃したという証拠ですが、ただ、一つ例外があって、それが飛鳥大仏です。1400年以上の長い年月をともかくも生き残って、現在の私たちも目にすることができます。
8月14日の朝、私たちはこの明日香村に立ち寄りましたが、暑かったです。到底、サイクリングや散策をする元気がなく(情けないばかりに…)、結局車で狭い明日香村をぐるぐると回り、飛鳥寺でようやく車を降りました。
拝観料を払い、飛鳥寺並びに飛鳥大仏の由来の説明を聞きました。私たちが意外に思ったのが、重要文化財である大仏の撮影が自由なことでした。ですから、写真は盗撮ではありません。
拝観料を払い、飛鳥寺並びに飛鳥大仏の由来の説明を聞きました。私たちが意外に思ったのが、重要文化財である大仏の撮影が自由なことでした。ですから、写真は盗撮ではありません。
(注)ブログに載せて良いものか心配でしたので、念のため、飛鳥寺-安居院-の許可をいただきました。
飛鳥寺の建立ははっきりしませんが、6世紀末、蘇我馬子が、物部守屋との戦闘に勝利できたならば、寺を建て三宝をひろめるとしたのが起源と言われています。お話の中でも出てきましたが、一つの塔を三つの金堂が北・東・西と配置され、講堂が回廊の外側に配置される飛鳥寺様式と呼ばれる伽藍配置であったとのこと。ちなみに法隆寺は、西に五重塔、東に金堂、回廊の北が講堂となっています。こういう意味で法隆寺よりも壮大な伽藍であったと、想像することもできます。
飛鳥大仏は日本最古の仏像(7世紀はじめ)で、鞍作鳥が勅命で造りました。平安時代、鎌倉時代の二度の火災により伽藍は焼失し、飛鳥大仏も損傷し、室町以降は、荒れた土地に顧みる者もなく雨ざらしであったとのこと。
この期間に何度も補修を受け、当時のままという部分は、頭部の一部と右手指だけという非常に痛々しいお姿になってしまっていますが、飛鳥時代風の面影を今に伝えています。
右からみた表情(厳しい)と左からみた表情(穏やか)が違うということでしたのでその二枚を掲載してみました。如何でしょうか?
飛鳥大仏は日本最古の仏像(7世紀はじめ)で、鞍作鳥が勅命で造りました。平安時代、鎌倉時代の二度の火災により伽藍は焼失し、飛鳥大仏も損傷し、室町以降は、荒れた土地に顧みる者もなく雨ざらしであったとのこと。
この期間に何度も補修を受け、当時のままという部分は、頭部の一部と右手指だけという非常に痛々しいお姿になってしまっていますが、飛鳥時代風の面影を今に伝えています。
右からみた表情(厳しい)と左からみた表情(穏やか)が違うということでしたのでその二枚を掲載してみました。如何でしょうか?
この飛鳥寺の外に、蘇我入鹿の首塚があります。入鹿は、645年に飛鳥板蓋宮で中大兄皇子と中臣鎌足に暗殺されました。首塚は入鹿の供養のために造られたそうです。暗殺された入鹿の首が多武峰の入り口「もうこの森」あたりまで鎌足を追いかけ、さいごに首が落ちた場所(戻ったのでしょうか…笑)が首塚あたりといわれています。中臣鎌足が如何に謀略の限りを尽くしこの政敵を葬ったのか知る由もありませんが、入鹿の恨みもそれだけ強かったのでしょう。三枚目の写真がその首塚。蘇我氏の邸宅のあった甘橿の丘を背後に望みます。
余談ですが、最近、京都市内で、なぜか梅原猛氏を良くお見かけします。京都駅で、病院で、あるいは四条烏丸の交差点で、というように…。梅原猛氏といえば、何といっても『隠された十字架-法隆寺論-』とか『水底の歌』といった迫力ある論考で有名です。昨日の「妹背山婦女庭訓」にも出てきたように、蘇我入鹿といえば、悪の代名詞のようなものですが、その固定観念を崩してくれたのが、この『隠された十字架』であり、それをベースに描かれた山岸涼子氏の『日出処の天子』でした。
山背大兄皇子(蘇我入鹿からみると従兄弟)をはじめとする聖徳太子一族の虐殺、その虐殺の首謀者とされる蘇我入鹿の暗殺、入鹿の父・蝦夷を死に追いやり、さらに、入鹿暗殺の協力者だったはずの蘇我倉山田石川麻呂の殺害…、これらの事件で蘇我氏はあたかも内部分裂の様相を呈し互いに殺し合いあっけなく滅びてしまいます。何故か…? 『隠された十字架』には、これらのことが法隆寺建立の謎を解く鍵として興味深く描かれます。
山背大兄皇子(蘇我入鹿からみると従兄弟)をはじめとする聖徳太子一族の虐殺、その虐殺の首謀者とされる蘇我入鹿の暗殺、入鹿の父・蝦夷を死に追いやり、さらに、入鹿暗殺の協力者だったはずの蘇我倉山田石川麻呂の殺害…、これらの事件で蘇我氏はあたかも内部分裂の様相を呈し互いに殺し合いあっけなく滅びてしまいます。何故か…? 『隠された十字架』には、これらのことが法隆寺建立の謎を解く鍵として興味深く描かれます。
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このあと、とにかく暑いので、飛鳥ロマンもそこそこに、次の吉野の地に向かいました。