バーナデット・ロバーツさんの本
「自己喪失の体験」
というものを初めて読みました
知る人ぞ知る
有名なお方だと思っております
ネットの古本屋で買って
今日届いたばかり!
まだ全部読めていませんが
題名の通りの内容を
書きますよ
※すべてを読んだ後に
今回書いた内容を訂正する場合がありますが
この時点の言語化をします
らぴ。とバーナデットさんの違いは
まずは生き方です
これは誰にでも当てはまる
当然のものですが、、
同じ人なんていないですからね
らぴ。の場合
常に思いを捨て続けおり
自分以外のものに依存することは
ありませんでした
バーナデットさんは
信心深い方だった
言い方を変えると
信じる対象が自分ではなかった
ということです
自分以外のものに依存していた
とも言えます
自己が消失した時
今まで信じていたものが消えて
例えて言えば初めは
他に信じるものを探し続けた
というふうに見えます
そして
バーナデットさんはそれまでは
生命にあふれ、豊かな生活
をしていたのではないかと思いました。
(この本に
生きているという感覚がなくなった
という記載があるからです。
らぴ。にとっては
そもそも生きてる感覚って
わかりません、今も昔も
そこに焦点が無かったからです)
長い間、瞑想をされていたからか
考察やその時感じたことの記述も
丁寧でした。
しかし、かつてのらぴ。には
感じたものはありませんでした
すべて斬り捨てていたからです
そして
かつてのらぴ。は
そもそも神を信仰していなかったので
それが無くなっても
全く問題ない
(というかそういう認識が
そもそもありませんでした)
よってそれに関する
考察・苦悩・感想
などは書きようもありません
無いから
だからそれについては
言語化できません
そもそも
らぴ。の生き方は
挑戦だったので
ただただ進むだけで
考察などは当時は全くしておりませんでしたし
(野生児?(笑)
だからその点は
バーナデットさんはすごいな
と思いました。
こうやって
バーナデッドさんが言語化してくださっているので
らぴ。もブログに書くことができる
有難いなぁと思いました
バーナデットさんも
道において
(バーナデットさんは
「窮極への通路」と表現されています)
らぴ。と同様に
段階がありました。
その都度、転機があったのですね。
これは同じです。
「自己喪失の体験」
から一部を引用します
その後の三日間は、沈黙に呑み込まれないように
絶えず目覚めているための闘いでした。
最小限の日常の仕事をするにも、
今何をしているかを思い起こす努力が必要で、
今にんじんの皮を剥いている、
今にんじんを斬っている、
今鍋を取り出す、
今鍋に水を入れる・・
という調子です。
最後には疲れ切って座り込んでしまうのですが、
その途端に気を失います。
その間が数分間と思っても実は数時間のことがあれば、
その逆の場合もあります。
その間夢も見ず、身のまわりを意識せず、
思考も感情も停止して全くの無です。
p16~
この絶えず目覚めている状態を保持する状態は
らぴ。の第2の実践である
眉間の実践時と似ています
違う点は
らぴ。は意図してその状況を創った
ということです
実践すれば気を失いそうになる
しかし実践をやめない
という感じでしょうか
また、にんじんを切っている状況は
眉間の実践の前の
第1の実践、
喜んでの実践の終了時と同じです
動作の一つ一つが
それまでとは同じようには
できなくなったのです
ただ気を失うことは
その時はありませんでしたが
(ざっくりと省略ですが)
その後、バーナデットさんは
長い静寂を乱されず自然と接することが必要だと考え
シエラ山中の森林に出かけ
五か月間、キャンプをされました
私の場合、見守る対象が生物でも無生物でも
みな同一の実在を啓示しているので、
これを「一なること」と呼びました。
略
この見方の不思議な点は、
他の物には注目できるのに私自身は見られないことです。
それは鏡なしで自分を見るように不可能でした。
p31
この時点ではまだ
自我があります。
なぜなら、他の物には注目できるからです。
私の身体の他に残っているのは
この「見ること」だけですが、
これさえ私に属しているとは思えないのです。
p31
この
「見ること」
ですが
もしかしたら
うまく翻訳ができていないかもしれません
そのうちにこの虚無がますますまぎれもないものとなり、
耐えがたくなってきました。
内的なものを一切失ってから、「見ること」だけが私の生活となり、
まったく依存していたのが、それがもう無くなってしまったのです。
略
私は突然まわりのすべての生命が
完全に停止してしまったのに気がつきました。
どこを見ても恐ろしい虚無がすべてのものに侵入して生命を奪ってゆくのです。
皆忍びよる虚無を息つまらせ、断末魔のうめき声を発するほかないのです。
生命が急に抜け落ち、そのあとには死と崩壊しかありません。
これは奇怪な光景で、こんなものを見てはもう誰も
生きていられないと思いました。私の身体はその場に凍りついてしまったのです。
p39
この経験は
らぴ。のと照らし合わせると
第2の実践真っ只中と似ています。
しかし、らぴ。は
こんな風に言語化できません。
らぴ。は
あえてその状態に飛び込んだからです
自分の決めた実践を行えば
その状況になるので
実践をやめればよいのですが
やめず、
その状態を乗り越えるべく
常にその実践を続けたからです
死や生命や崩壊など
これらを感じる前に
斬り捨てていたため
(よってあったかどうかもわからない)
よって当時の光景は
バーナデットさんのようには言語化できないです
また例えて言えば
らぴ。にとって
生命とはなんぞや
なのです
らぴ。にとっては
そんなこと
道において
問題にしたことが無いからです
この得体の知れないものに巻きこまれれば、
塵のように吸い込まれてしまうと思いました。
「私」はもう終わりで、
自己喪失のあとに何が残っていたとしても。
今この不思議を見ている目の光と共に、
あと1秒で消えてしまうのかと思ったのです。
一方そんなはずがないとも思いましたが、
そのまま何もできません。
目をそらすことも一歩もうごくこともできず、
どんな応答も思考も感情も起こらないので、
なりゆきに任せるほかなかったのです。
p36
バーナデットさんのこのような状況の記述があります。
バーナデットさんはどちらかと言えば受け身で
らぴ。は能動的であったので
違いがあるのかもしれません
能動的な行動の場合
感じることはできないからです。
目に見えず得体の知れない恐ろしいものを
見つめようとすることがどんなことかは、
とても言葉で伝えられません。
それが何かわかっていれば、それだけで防御になっているのですが、
既知のそんな概念も当てはまらないときは、
知ることをあきらめて
直接向かい合うほかありません。
私が見つめようとしたものは、
あらゆる様相の恐怖と狂気が寄せ集まったもので、
一口で言えば心理的な殺し屋なのです。
p45
バーナデットさんは
逃げませんでした
いや、ここまで来たら
逃げることができなかった
かつてのらぴ。の
自分の後ろに道はもう無く
前に進むしかなかった
という状態と同じですね
そのうち頭に火が付いたように熱くなり、
目の中に光がいっぱい見えるのです。
そのとき私の足が冷えはじめ、その冷えが次第にのぼって
頭を除いた全身に及んできました。
とうとう私は痙攣を起こして激しく動悸したまま
背後に斃れてしまいました。
てんかんのような状況です
私は今にも真っ二つに割れてしまうと思いました。
「氷の指」が私の進退を裂く間、
いつ割れるかと待ったのですが、
無限の時間のように思われました。
内には何の動きも無く恐怖もどんな感情もありません。
私はこの内部の静寂に注目しようとしたのですが、
それは頭上に蠅が飛んでいるほどにも気にかけていない様子で。
何の助けにもなりません。
敵の矛先を受けるのはもっぱら私の身体だけで、
心はまったく関与できないのです。
もっとも関与していたら大変だったかもしれません。
私の身体は極度に痛めつけられていたので。
奇跡でも起こらなければ助からないと思いました。
しかし奇跡を望んだわけでもなく、
祈りの言葉も出て来ません。
ただ、死ぬのなら死んでもよいから
もう終わりにしてほしいと思ったのです。
次に気がついた時、
恐ろしい相手はいつのまにか立ち去っていて、
私は身体の感覚を全く失って深い静寂の中にいました。
少したってふと振り向くと、
一尺ばかり離れた所に立つ野草の小さな花が目に入りました。
そのとき見たことはとても言い表せませんが、
強いて言えば
その花が微笑んだのです。
全宇宙からの歓迎の微笑というように。
私はそのまま目もそらせず身動きもできずに、
その微笑の強烈さに耐えていました。
p46~
バーナデットさんは瞑想だったので
基本受け身
らぴ。は実践であったので能動的
よってバーナデットさんはいろいろな状態を
受け
らぴ。はそんなことお構いなしだったので
虚無を感じる暇が無かったのでしょう
ただこの文章で
らぴ。との共通点があります。
死ぬのなら死んでもよいから
もう終わりにしてほしいと思ったのです。
この部分
らぴ。の場合
「死んでもよいから実践し続ける」
でしたが
2人とも
死に対して逃げなかった
死の恐怖より勝るものがあった
と言えます
バーナデットさんにとっては
その状況が
死よりもひどいものと思ったのかもしれません
らぴ。は
死んだらどうしよう
という思いで
実践を中断させることはあってはならない
=死んでもやり遂げる
という感じでした
実践を中断することは
なにがあっても
決してあってはならないことでした
しかし命が無ければ
実践できないのですけどね、、(笑)
ちなみにこれは第2の実践の時です
第3の最後の実践時は
恐怖は全くありませんでしたが
あまりの集中に
頭が爆発するかもしれない
しかし続ける
ということはありました
私は身体の感覚を全く失って深い静寂の中にいました。
これも同じです。
らぴ。が実践をやりとげて
自我が無くなった時
それはお風呂から出た時だったのですが
(どんな時も実践をしていました)
あまりの状況に着替えて横たわったのでした
(着替えるという動作なしに)
その時の状況
全く同じです。
ちなみにバーナデットさんの黄色い花は
そのとき、丘にいたからです。
バーナデットさんの黄色い花は
らぴ。にとっては
家の中で寝っ転がってましたので
天井でした
ただただそれでした
バーナデットさんのこの出来事の前に
よく出てくる言葉が
「氷の指」
というものです
このように書かれています。
私が相手にしなければならないのは凍りついた自己で、
これはあの得体の知れない虚無がさし伸ばす
「氷の指」とでもいうように、
私のすきを狙って姿を現すのです。
略
この「氷の指」が少しでも触れれば、
頭に電光が走り、私の存在が侵されて
気が狂ってしまうと思ったのです。
しかし私の内部の沈黙は
自己が無くなったあとに残っているだけで、
もはや私のものとも言えません。
今、こうして私の運命は、
この静寂といつ現れるか分からない
得体の知れない虚無との間の危うい均衡に懸かっているのです。
p43
この氷の指は
例えて言えば
激流の状態時でしょう
イメージしてしまえば
すぐにそれは現れてしまう
という状況で在るため
隙を作ることができません
すこしでも
それについて考えてしまったら
それは私を引き裂く
というレベルの状態なのです
これに関しても
眉間の実践時に似ています
ちなみにらぴ。の場合
最後の頭頂の実践時は
虚無などは全くありませんでした
(あったとしても全く感じていない)
ただただ淡々と
しかし研ぎ澄まして実践を行いました
それは
全く隙なく行うべきもので
(しかし邪魔するものはほとんどなかったですが)
ただただまっすぐに突き抜けようとする意志により
突き抜けたのでした
風船に穴を開ける時
ゴムが反発して
なかなか突き刺せない中
しかし完璧に焦点が合った時
ついに風船に穴が開き
一気に風船そのものが無くなった
と例えられます
バーナデットさんは本当に
信心深いひとだったのだろうな
と思いました。
それに比べたら
らぴ。はチャレンジャーで
神からすると反逆者じゃないかしら
なんて思ってしまいました
虚無を怖がるどころか
それに向かっていったのですから
※下に追記あり
そしてバーナデットさんの
てんかんのような状態は
眉間の実践時に起こったことに
少し似ています
らぴ。は
実践しては気を失い
しかしすぐに戻ってくる
といった状態を繰り返していました
首が固まって
体が震えたのを何度も経験しています
その体が震えた時
(これがてんかんに近いのかな)
気を失うのですが
時間ではカウントできないようなもので
例えて言えば
すぐに戻ってくる
といったことの繰り返しでした
バーナデットさんの記述と
らぴ。のかつての状況を
照らし合わせてみました
流れは全く同じではないかもですが
(起こっている内容のタイミングが
微妙に違う?
一緒かもしれないけど)
似ているなぁ
と思いました
今回はここまで
まだまだ読んでいきます
今回は切り取って書いたようになりました
読んでいる初めの方は
あまりに苦悩の思考が多い内容だったので
?
と思って読んでいましたが
結果的に
同じ状態である可能性が高いかも
と思っています
第二部は
この旅の省察
第一部もよく読めていないので
読みますね
読んでくださってありがとございます
@(*・ω・*)ポッ
バーナデットさんもらぴ。も
長年かかっています
バーナデットさんは瞑想を
らぴ。は自分の決めた生き方を
数十年です
だから
まずはそこから始めなければなりません
※追記
>らぴ。はチャレンジャーで
>神からすると反逆者じゃないかしら
>なんて思ってしまいました
>虚無を怖がるどころか
>それに向かっていったのですから
神という存在は
神を超えることを
よしとしない存在かもしれません
神を信じれば
虚無を感じないからです
しかしめったにいない本物は
さらに
神を通り抜けて
虚無に出会ってしまいます
この虚無を超えて初めて
新たな境地となりますが
神の存在は
それを邪魔しているのではないか
とも言えそうです
いや、
確かに神は人々を守っています
虚無なんて経験しないほうがよいから
しかしそうであれば
その先を見ることはできないとは
なんともです
アダムとイブは
リンゴを食べて楽園を追い出されました
それは
神に頼らない新たなる独立の道なのです
神に頼らない
神から独立すること
それはダメだ
と罪悪感を植え付ける
残念ながらそんなこともあるようです
しかしらぴ。はラッキーでした
そんな神の概念がそもそも無いから
この虚無の道は
神を信じる人にとっては
耐えがたいものとなるのは
明確です
そこを通り切ったバーナデットさん
お見事でした
(しかしバーナデットさん
途中でやめていたら
危険だったかもしれません
らぴ。もそうでしたから)