らぴ。のかつての道は

 

「こうあるべき」

 

という道でした

 

この道の場合

自分の「~したい」

という思い・願望を斬り捨てて

自分の高い理想の状態(=完璧に善い人)を思い

その理想の状態であるなら

自分はこうであるだろう

という思いで

精進しました

 

自分の個人的欲を叶えるような願望は

捨てるべき願望でした

 

修行僧やな、、(笑)

 

 

らぴ。の精進の大元は

幼き頃の幸せな状態です

 

その無条件の幸せも目指しました

 

無条件とは

幸せに

条件が無い

=どんな時も今すぐ幸せ

というものです

(らぴ。の定義)

 

そうなるためにも

完璧な幸せは

完璧に善であることが大切だ

と思っておりました

 

そうでなければ

完璧な幸せはない

悪があっては幸せではない

と思っていたのでした

 

 

結局

人は

自分の生きたいように生きること

これが幸せなのですよね

 

らぴ。は自我が無くなったおかげで

どの様な生き方をしても

文句や批判をする自我が無くなったため

自由に例えて言えば生きることができます

 

よって精進によって

自由な状態となれました

 

なので自我消滅は

らぴ。にとっては

自由に生きるための

前提条件で

それを達成できて

やっと自由な生き方ができる

という感じとなりました

 

らぴ。は自我が強かったので

自分に対しての批判の声(気持ち)も多かった

 

この批判の声を斬り捨てて

また

批判の声を少なくするためにも

批判が起こらない生き方

=善なる生き方

が必須となったわけです

 

一般的には

批判の自分の声はそこまではないかもしれないし

その批判の声があったとしても

自分の願望を優先できる方が多いかもしれません

(なぜなら自我消滅を真剣に目指す人はほとんどいないから)

 

らぴ。は批判する声が1ミリも許せなかったのです

 

( ̄▽ ̄;)

 

 

話は戻りまして

自我の声が無くなったおかげで

批判の声が無くなり

例えて言えば

自分の思うように生きてもよい

という状態になったらぴ。です

 

が!

思いが無くなった(笑)

 

しかし、それまでの名残と

それまでの環境があります

 

悟ったからと言って

生活が変わらない(変わらないように見える)のは

誰もがご存知のはず

 

 

悟りの前、薪を割り水を汲む。  

悟りの後、薪を割り水を汲む。

 

こういう言葉がありますが

その通りです

 

悟りの前、「私」が薪を割り水を汲む。

悟りの後、薪を割り水を汲む。(ように見える)

悟った後は周りの人からはそのように見えるし

悟った本人は何もすることなく薪を割り水を汲んでいる

と言い換えることができます

 

また、悟りの前に薪を割り水を汲む環境であったものは

悟ったとも同じ環境に在る

とも言えます

 

よって悟る前のらぴ。の状態が

そのまま

悟った後も名残・環境として残る

(悟りの道をどの様なものにするか

道の数は人の数だけありますが

善なる道をすすめるのはそのためです)

 

よって悟っても変わらず

らぴ。は幸せな環境で在り

(幸せで在ることを徹底して生きていた時がありました)

さらに

悟る前に大元としていた

子供の頃の幸せな状態

の方向性が残っているのです

 

そしてそれを遮るものが無い状態なのです

 

かつて

幸せに生きていた子供の頃のらぴ。の

好きだったこと

こう在りたいと思っていたこと

そして当たり前だったこと

ありがたいことに

それらが戻ってきつつあります

 

それはかつての積み重ねと

今、それを邪魔する思いが無い状態によって

自然にそうなっていきます

 

結局は

子供の頃の

思うように存在していた

という状態が

らぴ。にとっては

最も幸せな状態なのですね

 

@(*・ω・*)ポッ

 

 

そうであれば

悟ることなく

子供の頃の幸せな状態を

思いがある状態で

さっさと叶える方向で行ったらよかったのでは

と思われる方

いるかもしれません

 

その通りで

らぴ。は遠回りをしました

 

らぴ。の人生のテーマとして

この世の仕組みを知る

というのもあったので

遠回りは避けることができませんでしたし

これがらぴ。にとって

納得する道でした

 

これはらぴ。だからそうであるだけなので

皆さまは

直接幸せになってよいのでっす

 

しかし意志が強い人

思いを叶える力が強い人ほど

それに反する思いも強いのも事実です

 

らぴ。はまずはそれに対応しました

 

これもどうしていくかは自由です

 

言えることは

自分の人生

自分の納得した道を行く

これがベストなのだと思っています

 

後悔ない人生

今すぐ始めましょう!

 

ってもう始めてますね

(o^∇^o)ノ

 

 

例えなのですが

すべき(理性)生き方は

自我に対抗する生き方です

 

したいことをする(本能)生き方は

自我にそった生き方です

 

しかしこの自我に沿った生き方をしていても

葛藤が起こることがあります

 

自我はいろいろな声を持っているからです

自我の声、周りの人の声

そしてそれを気にする自我

などなど

自我はいろいろな要素を持っています

 

自我を解明しようとすることは不可能です

 

自我と付き合っていくか(自我の存在を認める)

自我をほどよく気にしないか(自我の存在を認める)

自我が無くなるか(自我を認めない)

ですね

 

自我は悪いものではありませんから

生きていく上で

問題とならなければ

そのままでいいのです

 

それもありのまま

です