四門出遊

という言葉がありますね

 

釈迦が29歳の太子(ヴィパッシン王子)の時、

王城の東西南北の四つの門から郊外に出掛け、

それぞれの門の外で老人、病人、死者、修行者に出会い、

人生の苦しみを目のあたりにして、苦諦に対する目を開き、

出家を決意したという伝説

(Wikipediaより)

 

(伝説かもですが)

釈迦は老人、病人、死者から

例えて言えばその現象を苦としたのでしょうか

 

うむ、、、

 

これらは一般的に

苦となるものなのですね

 

しかしらぴ。のかつての意識には

それがほとんどなかったです

(考えたことが無かった!)

それによっての苦は発生しませんでした

 

らぴ。にとっては苦とは

どういう生き方をしているか

によるものでした

 

 

Wikipediaでは釈迦はその後、

 

パーリ仏典優雅経では、

釈迦はかつて自分が宮殿生活をしていた過去を振り替えって、

そのとき抱いていた

「若さの慢心」「健康の慢心」「生への慢心」がすべて捨てられたと述べている。

 

 

と書かれています

らぴ。も自分の慢心に気づき

自分が許せなくなりました

ここは同じです

 

例えば

人をジャッジしたり

自分を優先したり

 

自分中心の毎日でした

 

自我が目覚めて

こういったかつての自分に気づき

自我が「私」を責めたのですね

 

それではだめだろうと

 

そこから

善き人になることを決心

 

人をジャッジすることも

自分を優先することも辞めました

 

行動する時は

無条件で

喜んで!

と行動し

 

何もしていない時は

無でありました

(自我はありましたよ)

 

 

そしてその自分の生き方を貫いたのですが

その間

体を酷使することもありました

 

それによって

意図的に体の衰えを引き起こしました

 

実践が結果的に

体の衰える方向になっていたことが

多々ありました

 

例えば

眉間や頭頂の実践は

意識を上に上げるものでした

 

若い時は

意識が下の方にあり

歳をとると

徐々に上に上がります

 

だから歳を取ると

足元がふらつくのです

 

 

そして頭を突き抜けると

死なのですね

 

頭頂の実践が終わった時

さらに頭頂の上にもっていくと

体は死ぬだろう

という時があって

やめました

 

 

今はらぴ。は

生命を下に下げています

 

どういうことかというと

体のストレッチなどで

体の中に戻ることです

 

体をほぐして

体が目覚めると

体が元気になってきます

 

植物で例えると

根がしっかりしてきたら

上部も生き生きしてきますね

 

人間も根っこのところが

しっかりしてくると

体全体が生き生きしてくるのです

 

 

ちなみに人間の根っこは

背骨の根元です

 

仙骨です!

 

この仙骨を起こしていきます

 

 

体が衰えると

体がしんどいのも気づけないくらい

鈍感になります

 

仙骨が起きると=目覚めると

それまで眠っていた体も

目覚めます

 

鈍感だった体の部分が

まずは主張してきます

 

この場合

だるさも痛みも

目覚めのしるし

 

 

 

上半身と足元の真ん中は

腰、仙骨です

 

ねっこ=仙骨を起こしましょう

まずは物理的にです

=姿勢大事

 

 

また、

精進がいったん終わって

(一部消滅後)

人としての幸せを求めて生きた時

(この幸せとは物質的、精神的

どちらも求めました)

体調がめちゃくちゃ悪くて

割と病院に通っておりました

( ̄▽ ̄;)

 

 

よってらぴ。は

老人、病人、死者について考えたことが無かったけど

毎日のなかで

老人(体の衰え=意識が上がってしまう状況)

病人(病院にかからなければならない状況)

死者(自我の消滅は死とも等しい

   また、ラスト、頭頂を突き抜けかけたこと)

こんな感じで

すべてその状況に出会いました

 

ただ苦は感じていませんでしたが

(病院においてもなぜかポジティブでした

一部消滅していたからというのもあります)

確かに

その状況がありました

 

 

体が存在していたら

避けては通れない状態なのですね

 

 

しかし

それは本当でしょうか

 

まず真我には

老人、病人、死者の概念はありません

 

しかし体には

通常それがあります

 

 

今、いろいろ実験しています

 

不可能なんてない

 

そういう言葉があるなら

そのような状態もあるはずです

 

 

らぴ。は(前にも書きましたが)

体に戻りつつあります

 

悟ってから

しばらくは

体が必要ない状態で

また

体にいることが

どういうことか

忘れてしまっていました

 

 

ほとんどの人にとって

体が存在しているのは

当たり前ですね

 

らぴ。にとっては

そのような状態ではなく

名残として体が残っていても

体を

無我が必要としていませんでした

 

 

ちなみに

普通に日常は過ごせているし

誰にも

この状態は気づかれていない

、、、と思うけど( ̄▽ ̄;)

 

 

徐々に戻ってきています

 

やっと

体について

実験ができるのです!

 

 

@(*・ω・*)ポッ

 

 

ちなみに

精進時は

体の感覚を捨てます

 

釈迦の経典にも

似たようなことが

書かれていたかと思います

 

純粋なる意志

という

例えて言えば精神体で

精進していきます

 

感覚はすべて捨てます

感じる「私」は捨てて

=苦も楽も感じることを捨てる

ただただ精進する「私」となります

 

ちなみに

ラストの精進は1日で終わったのですが

日常の中で精進しました

 

日常でやるべきことを習慣でこなし

メインは精進でした

 

この時

日常のするべきことは

 

「何もすることなくできていました」

 

これは自我が消滅した時に

よく使う言葉です

 

ただし、当時

精進についてはしっかりと自我が精進していました

集中という行為をしていました

 

もう

息をすることも

ご飯を食べることも

自我は何もしていませんでした

 

体が勝手にやっていてくれている状態だったので

精進=集中に

100%意識を向けることができたのでした

 

 

それくらい

実践に集中が必要です

 

 

ちなみに精進時

体の存在は必須です

 

体が無くなってしまっては

精進ができないのですよ

 

しかし体の存在によって

苦が発生する

 

体が無ければ

苦は発生しないけど

しかし精進はできません

 

体が無ければ

自我のその先の真我になることはできず

すべての意識を含む海に

存在するだけとなります

 

よって今、体がある人は

すべてチャンスがあるのでっす

 

体の存在によって

個が存在できるからです

 

 

生まれてきただけで

大いなるチャンスが存在しているし

そもそも

生まれてきただけで素晴らしいのです