ほとんどの人が

自分の思いに従って生きています

 

「私」が主人公ではなく

思いが主人公となっています

 

 

こういう感情があるから

こういう行動をする

 

思いによって

行動が制限されている

左右されています

 

めんどい

とか

したくない

とか

そういう思いが行動を支配しています

 

この思いは

自我から発せられます

 

 

自我は人として生きていくのに

一般的には必要です

 

危険を察知したり

よりよい道を選んだり

 

それらは自我の働きがあるからです

 

しかし

自我によって行動しているこの「私」は

一体何でしょうか

 

「私」が判断していると思っているけど

その大元は何でしょうか

 

自分の思いなのです

 

思いが根拠となっています

 

「私」ではないのです

 

この「私」って

一体何なのでしょう

 

 

らぴ。は

この「私」がハッキリと目覚めた時を

覚えています

(それまでもうっすらと

たまにいましたが)

それと同時に

ある思考が始まりました

 

そしてその目覚めた日に

自分の進むべき道を決め

精進が始まりました

 

 

それまでこの「私」は

あまり主張していませんでした

 

らぴ。は自由に

好きなように存在していました

 

しかし「私」が目覚めた時

その「私」は

らぴ。をジャッジし始めたのでした

(それが大人になること?)

 

それまでのらぴ。はわがままであったと

今までの行動で

それは無いだろうと

 

その声にらぴ。が反応しました

 

「私」はひどい人間だと思いました

 

善い人間になりたいと思いました

 

そして善い人間になるため

生きることを始めました

 

清く生きるために

不必要な声

それはいらないと思いました

 

よって

それらの声を斬り捨てて

善なる気持ちに従って生きることは

らぴ。自身が存在するために

必要なことだったのですね

 

善なる精進自体が

生きること

となったのです

 

 

自我の声に影響されない「私」を確立するために

ひたすら

自我の声を斬り捨てていきました

 

気づく人は気づくでしょうか

 

行動している「私」は

ほんとの「私」ではないことを

 

いや、本当の「私」ではあるのですが

思いに左右されやすい「私」なのです

 

そんなものに影響されない

確立した「私」であること

それが目標でした

 

例えば

自分の行動を邪魔する思いは

影響されないために

斬り捨てて

行動しました

 

しかし

言葉に表せないなにかが存在していました

 

それでもあきらめませんでした

 

純粋なる私であるために

不必要な思いを斬り捨てておりました

 

 

らぴ。は

なぜこのようなことを

行ったのでしょうか

 

これは知っていたというよりは

自分の思いに従って順番に考え

こうであるならこう

だからこすればこうなる

みたいな考え方で

在るべき道を得ました

 

自分の思いに向き合い

それまでのいろいろな現象を分析し

その結果を用いて

自分で考えました

 

 

本格的精進開始時では

自分の決めた行動を

行動を邪魔する思いを斬り捨てながら

ひたすら行動しました

 

常にそれに反する何かがありましたが

斬り捨てていたため

認識するまではいかず

しかし

何かがまとわりつく感じがありました

 

どんなに斬り捨てても

何かがあるのです

 

今ならわかるのですが

それはそもそも

「私」が行動しているからでした

 

「私」が行動する限り

思いがまとわりつくのです

 

「私」が行動する時

純粋なる行動そのもの

ではないのです

 

純粋なる『私』の状態になると

「私」による行動はありません

 

この「私」がある限り

思いが存在し

行動する「私」がいる

ということになるのです

 

しかし精進時は

この「私」が

強い意志をもって

行動していると思っていました

 

「私」が考え

「私」が行動していると思っていました

 

そして

この「私」が無ければ

存在できない

と思っていました

 

この「私」が

すべてをコントロールし

そうであるよう行動し

生きていると思っていました

 

「私」が無くなることは

死に近いものだと思っていました

 

よって精進時は

「私」を常に保持し

「私」の指針に従ってやってました

 

しかし精進の結果

その「私」が無くなるなんて!

 

 

しかし

「私」が無くなっても

存在は消滅しませんでした

 

自我が消滅したのみで

新たな『私』の状態になりました

 

この『私』は元々いました

 

しかし

自我=「私」に覆われていて

気づくことができませんでした

 

そもそも

「私」が主体となって生きている時

その「私」は大元の『私』に

気づくことはできません

 

なぜなら

『私』という海に

どっぷりつかっているからです

 

当たり前すぎて

気づけないのです

空気のように

 

しかし

覚醒すると

海そのものとなります

 

「私」というフィルターが無くなって

そのものとなります

 

よって『私』に気づくことなく

『私』の状態となるのです

 

 

思いによって

人々は

落ち込んだり

勇気づけたり

苦しんだり

幸せになったりしました

 

人は

落ち込んだり

勇気づけたり

苦しんだり

幸せになったりする存在なのか?

 

これについて

らぴ。は納得できませんでした

 

なぜそのようにコロコロかわるのだ

何が真実なのかと

 

それが普通とする状態に

我慢できませんでした

 

コロコロ変わることない

変わらない真実となりたい

として

コロコロ変わる心、感情を

そうならないようコントロールし

それと同時に

自分の決めた一つのことを

やり遂げることとしたのです

 

永遠に変わらない状態となるために

今からすぐに

決して変わらない状態であろう

と決めました

 

今すぐ、それが叶っているかのように

そう在りました

 

コロコロ変わって当然

 

らぴ。にとっては

それは在りえないとし

変わらないことが普通

と思って

そうであるよう

それが普通であるよう

行動しました

 

 

最近の記事で

植物の変化、成長に喜びを見いだし

変わることのすばらしさについて

書きました

 

これは

『私』という変わらない存在の状態だからこそ

そう表現できました

 

これはらぴ。の場合なんですが

もし

らぴ。自体も

変化し続ける状態であるなら

植物の変化に素晴らしさを

見いだすことはできなかったでしょう

 

らぴ。なら、ですよ

 

 

らぴ。は『私』の状態になってやっと

この世を楽しめるようになったのです

 

そうなるまでは

楽しむことを許しませんでした

 

いや、一生精進のつもりでした

 

 

奇跡ってあるんですね

ほんとしみじみ思います

 

自分の想定外のことってあるんですね

 

そう

 

想定できない状態があるのです

 

 

 

今、自我がある人々にとっては

この状態は想像できないと思います

 

想像している「私」

の状態だからです

 

想像する「私」がいなくなった時

『私』の状態となります

 

『私』の状態とは

純粋なる『在る』状態です

 

 

世界は変わり続けますが

『存在』は決して変わりません

 

変わる要素が無い

 

ただ在るのみなのです

 

 

、、言葉足らずですが

もし今

自分がしたくないことがある時

まだ覚醒していません

 

そのしたくない

と思う「私」がいるし

するとかしないとか

行為する「私」がある状態だから

行動したくない

という思いが発生する時があるのです

 

 

行動そのものであったなら

そういう思いは一切発生せず

あっさりそのものとなれます

 

 

らぴ。は

『存在』そのものです

 

何の葛藤もなく

ただ在るだけ

 

悪魔との戦いに勝つことなく

消滅しました

 

もう悪魔はいません

 

この悪魔とは

天使とも言えます

 

悪魔と天使は紙一重

どちらも「私」を

コントロールしてきます

 

それに打ち勝たなければなりません

 

最後の道で

神に出会っても斬る捨てるべき

というのはそういうことです

 

すべての認識できる存在を斬り捨てて

それらが無くなって初めて

 

純粋なる『存在』となります

 

純粋なる『存在』は

認識できません

 

 

究極の状態について

認識する

とか

知っている

などと表現する人は

まだ真我となっていません

 

この状態はまだ実践者であり

実践者とは

行動する「私」がいる状態

行為が存在している状態です

 

この状態で説いてはだめでっす

 

 

思いが無い

とは

 

存在に思いが付随していない状態

 

思いによらない存在の状態

 

(思いが無いため)葛藤が無い状態

 

『存在』自体の状態

 

真我の状態

 

かな

 

 

悟りを勧めない

と言いながらも

かつてのらぴ。の好きだったことなので

また書いちゃいました

@(*・ω・*)ポッ

 

 

今日も読んでくださってありがとうございます

 

 

らぴ。の状態は

単に

らぴ。がそうでありたいと望み

そう生きた結果

そうなっただけ

 

全ての人が

望んだ状態となっていますから

同じです

 

 

 

>そんなものに影響されない

>確立した「私」であること

>それが目標でした

 

「私」は必ず思いに影響されます

 

よって「私」が影響されない

ということはない

 

影響されない確立した「私」

それは存在しない

 

揺らぐのが「私」

 

しかし

影響される「私」が無くなれば

影響されることも揺らぐことも

起こらないのでした

 

 

思いが無いとは

「私」が無い

と例えて言えば同じ意味です

 

「私」は思いである

とも言えるのです