悟ると「私」がいない

 

苦しむ「私」がいないため

苦が消滅します

 

二度と苦しむことがありません

 

 

しかしこの状態は

人として感じる幸せ

これも無くなります

 

人としての幸せとは

感じるものであり

味わうものです

 

「私」が無くなると

これも当然無くなるのです

 

 

らぴ。の求めていたのは

さらに

この人としての感じる幸せではなく

究極の幸せでした

 

よって「私」がある時に存在した幸せは

すべて捨てて

結果

今の状態です

 

何度も書いちゃいますが

らぴ。の望むものは

少し(とっても?)変わっており

それを望んで生きていたため

それを実現するためのアイデアが自然と湧き

それを素直に実践することで

達成できたのでした

 

これは誰にも共通な真理です

 

望んだものは

あきらめなければ

必ず叶います

 

それには

望むものが

本当に自分が望んでいるものであるか

がとても大切です

 

これらは初めの設定として

時間をかけて決定することが

結構大切です

 

 

さてでは

らぴ。がよく言葉にしている

 

「絶対的幸せ」

 

これは叶ったのでしょうか

 

 

まず相対的幸せは無くなりました

 

相対的幸せとは

らぴ。の定義では

何かがあって幸せ

の「何か」という条件がある幸せ

 

幸せと幸せではない時が存在する幸せ

 

としています

 

相対的なので

比較するものが存在する状態

=反対のベクトルが存在している

という幸せです

 

らぴ。はこれらの状態ではないので

今、絶対的状態である

と言えます

 

無理やりに見えますか?( ̄▽ ̄)(笑)

 

 

例えて言えば

幸せでない時がありません

 

その幸せとは

喜んだり

幸せがあふれる

嬉しい、楽しいという感情がある

という状態ではなく

 

邪魔するものが無い

遮るものが無い

 

自由という言葉以上の自由であり

自由でない時が無い自由

無条件の自由の在る幸せです

 

行動を邪魔する思いが無く

ストレートにありのままで在る状態

 

全てが存在している状態で

存在の自由が在り

存在することを邪魔するものが無い

 

この

存在することを邪魔するものが無い

とは

無条件の幸せであり無条件の自由です

 

 

人々は

存在するために

何かをコントロールしようとします

 

それは

自分の心だったり

環境だったり

周りの人だったり

 

それらをコントロールするのに

思いの一部を使ってしまうため

自分の在り方、在る状態を

後回しにしてしまうことがあります

 

その極端な例が

我を忘れている状態であり

その状態から

我に返った時

いろいろな思いになるでしょう

 

その思いが

自分の無条件の存在を邪魔したり

脅かしたりすることがあります

 

それは心の動き

とも言えるものです

 

 

 

自我があっても

無条件の幸せは

経験することができます

 

ただ存在すること

 

私という存在の大元

となり

または感じ

その状態で在ること

 

 

「私」という存在に

究極の幸せの大元が存在しています

 

 

「私」という存在であること

言い換えれば

「私」らしく存在できること

 

これが自我がある状態での

無条件の幸せではないでしょうか

 

@(*・ω・*)ポッ

 

 

 

>私という存在の大元

>となり

>または感じ

>その状態で在ること

 

「私」

と言ってみてください

 

その「私」はどこにあるでしょうか?

 

どこから「私」は発生しているでしょうか

 

例えて言えばこの方法で

「私」の落ち着く場所が分かります

 

「私」という存在の大元に

ふとアクセスできる可能性があります

 

「私」と言う時

その言っている「私」の存在は

どこにあるでしょうか

 

「私」という言葉と

「私」という存在の調和は

善い結果をもたらします

 

 

「私」が行動する

 

そう言える時の行動は

ある意味強力です

「私」の意志で行動できているからです

 

「私」の意志が何かの影響を受けていたとしても

それでも

「私」が行動する

と言える状態は人生を動かします

 

ちなみにらぴ。は

「私」

が強かったです

( ̄▽ ̄)