らぴ。はたまに

ライブで書いています(笑)

 

記事を書いている時の状況を

そのまま言語化していることが

たまにあります

 

よって何を書くか

考えることなく

今の状況と

そこから出てくる言葉たちを綴っています

 

 

らぴ。にとって

前も記事に書きましたが

同じ日が全くありません

 

そして今だに

いろいろ実験しています

 

そしてそれ自体が

例えて言えば

ブログを書けることに繋がっています

 

 

前の記事で首について書きました

これもまさしく

ライブでした
 
そして今、
首そのものになろうとしてもなれなくて
体全体になってしまいます
 
 
 
今まで
体の中にいない
とよく表現していました
 
その状態でも
全く問題なく
存在できています
 
しかし昨日
首そのものになっていると
そこでは収まらず
全体となってしまいました
 
そして
言葉にすると変なのですが、、、
 
 
息をはじめました!Σ(・ω・ノ)ノ!
 
 
今まで、息をしていなかった
 
いや、していたのでしょうけど
していませんでした!
 
息をすることを
忘れていましたね、、、
 
 
息をすると
体が同時に振動し
体全体が一体化します
 
 
呼吸は誰にとっても
善いものです
 
ってか、息をしていないと
そもそも生きられないと思いますが
さらに意図的に呼吸をすることは
全体を意図的に調和させることができ
イメージで
体隅々までめぐらせると
さらに生命を感じます
 
 
呼吸は生きている証です
呼吸をしている間は
全ての細胞が固まることなく
振動し続け
そこからエネルギーが生まれます
 
人は生きて呼吸して
存在することができます
 
呼吸は
命の源です!
 
 
そしてらぴ。の状況なのですが
全体となって
呼吸を復活させて
体全体が振動を始めました
 
かつての実践は
体の一点への集中でした
それによって自我が消滅しています
 
 
人は一般的に
体全体で
生きています
 
そこから一点に集中することにより
体全体の生命を一点に向かわせ
生命をすべて一点に完璧に集中できた時
その一点が消滅する
という状態となったのですが
 
それは言い換えると
命が消滅した
とも言えるものです
 
 
生命は生まれていつか無くなります
 
でも生命が無ければ
生まれもしないし無くなりもしない
 
これは空そのもののことと
同じなのですが
悟れば
そのような状態になります
(例えですよ)
 
生命という言葉で例えると
変な感じがするかもしれませんが
 
生じることも無くなることも無い
という状態は
そもそも
無い
=空である
ということなのです
 
よって生まれることも
無くなることも
生命が元々なければ
そのような現象は起こらないわけです
 
よって
生じることも
無くなることも無い
という状態は
生命が無い
という状態と同じ
と言語化できるのです
 
 
実際の所
空の状態は
例えて言えば楽です
 
ただ在るだけですから
 
生命が無い
なんて言葉にすると
怖い感じがするかもですが
生命の性質が無い
と言い換えることができるかもしれません
 
生命は無いが存在する状態
 
生命とは変化するものです
 
実際、らぴ。の体も
変化し続けています
 
悟りは変化することのない状態
変化が無い状態
それでいて
一定も無い状態
なのです
 
 
全ての人は呼吸し生きています
 
そして変化が存在する世界です
 
 
らぴ。はかつて
決して変わらない
ずっと同じであることを求めていました
 

それは人として生きている時

コロコロ変わる自分があったからこそ

そう思ったのでした

 

生きていれば

変化があるのですが、、、

 

これもまた

結果的に

悟りの状態を願っていたのだなぁ

としみじみ、、、、

 

らぴ。の生きることは

やはり悟りの道であったことが分かります

 

 

望んだ状態が悟りであることを知らず

とうぜん

自分の理想の状態で在る生き方をしていただけで

悟りたい

悟りが目標だ

なんて思うことが全くありませんでした

 

自分の生き方が悟りの道であったことが

いつ、わかったのかというと

はっきり言語化できるようになったのは

悟った後ですが

悟る前に

そういうことか!

と漠然と思うことがありました

 

それは釈迦の説く

善行を知った時でした

 

仏教をまともに知らず

善行というものも知らず

 

個人的に善い人になりたいとだけ思って

そう生きたらぴ。は

 

もしかして私の生き方って、、、、

もしかして?

 

とうっすらと気づいたのでした

 

その気付いた頃は

もうかつての生き方や

眉間の実践をしていたことを

すっかり忘れていた頃でした

 

釈迦の話を知って

かつての自分の生き方を思い出し

本能的に

私はそのように生きていたのだ

と知りました

 

「自分の思いを捨てて

行動する時は

心から喜んで行動しよう」

 

この生き方は

大げさに言えば

自分の思いを犠牲にして

善なる行動を積み重ねるものでした

 

その生き方をやり終えた後

眉間に集中する実践を行い

これもやり遂げました

 

眉間に集中する実践は

最高に激流でした

 

初めて「私」が無くなる経験だったので

とても怖く

しかし

やり遂げる

という思いが勝っていたため

何度も

「私」が消えかけては取り戻し

を繰り返しました

 

「私」が消えることが目的ではなく

眉間の開発が目的だったので

「私」が消えることを乗り越えて

眉間に集中を徹底するのが目標とし

何度もこれを繰り返すこととなりました

=激流を繰り返していました

 

そして最大の激流時

何が起こったのかわからなかったのですが

しかし

「私」が無くなった

ってか気を失うに近い状況でした

 

そして

現世界では数秒後

経験的には時間すらも無い状況なので

それは言語化できないのですが

戻ってきました、、、、

 

よってこの経験では

自我は消滅していません

戻ってきましたから

 

(消滅を何度も繰り返したため

それに対する耐性ができたのでしょう

悟りの状態に足を何度も踏み込んだ経験により

悟りの名残があったため

自我消滅時の最後の激流は

全く怖くありませんでした

すべては完璧でした)

 

それほどすごい激流も

その頃は忘れていたのですが

 

かつての師の命令により

頭の上に

同じ葛藤(激流時感じていたもの)が生じ

かつての道を思い出しました

 

これが悟りの道だ!

 

直感的にわかり

迷わず頭頂に集中を始めました

 

即座に最後の激流へ

飛び込みました

 

この激流では2,3個しか

雑念(思い)が出てこないほどの

集中ができました

 

ちなみに雑念のひとつ

覚えています

(あとは覚えていない、、)

 

らぴ。「絶対やり遂げる

    それ以外は何もいらない」

 

雑念「命もいらないのか?」

 

らぴ。「いらない」

 

即答でかわし

やり遂げました

 

(余談:その雑念は

やり遂げることを邪魔するものであるだけです

もしこの雑念で集中が途切れたら

悟れなかったでしょう)

 

 

 

最後の道の流れは完璧でした

 

かつての生き方が

釈迦の悟りに近いのではないか

と知り

釈迦を師としていた元師匠の命令により

頭頂に

眉間集中時と同じ葛藤が生じた

ということから

かつての眉間の実践も

釈迦の悟りと繋がるものだとわかり

頭頂を同じ方法で突破することは

釈迦の悟りだ

と察することができ

迷わず激流に飛び込むことができたのでした

 

 

この実践に関しては

すべて自分のオリジナルであり

元師匠の教えてもらった方法ではありません

 

しかし元師匠は

釈迦の教えを使い

その結果

らぴ。は激流へ導かれました

 

 

そもそも自分が悟るなって

全く思っていなかったなぁ( ̄▽ ̄;)

 

 

自分の生きている意味が欲しくて

眉間を開発して

特殊な力が欲しい!

が眉間に集中のきっかけですから、(笑)

 

 

ちなみに

眉間に集中することについては

集中するという行為がポイントです

 

いかに他を排除し集中することができるか

このスキルも

悟りに関係するものでした

 

@(*・ω・*)ポッ

 

 

みなさま

呼吸しましょうね!