※らぴ。は悟りを推奨していません

悟らなくていいですよ

 

ただただ幸せであるだけがよいのです

 

しかし悟りについて

らぴ。にしか書けない内容があるので

言語化しておきます

 


 

 

。。+゜゜。。+゜゜。。+゜゜。。+゜゜。。+゜゜。。+゜゜。。+゜゜。。+゜゜。。+゜゜

 

 

 

激流とは

 

悟り・彼岸の手前に存在するものです

 

激流が発生すると

その激流の先に彼岸が現れます

 

反対に

激流が無ければ

彼岸も存在せず

激流を渡る、ということが無く

悟ることも無い

 

よって悟り・彼岸に

激流は必須です

 

この激流により

「私」に付随している思いが

すべて洗い流されます

 

そして清らかな状態になって

彼岸に在ることができます

 

この激流で「私」を保持し

進み続けると

(※「私」を保持しないと進むことができません)

「私」さえも流され

「進む」という現象のみが残る

という状況になります

 

「私」が無くなったその状態

しかし『在る』状態

 

それが悟りです

 

悟った状態は

真我とか『実在』という表現もできます

 

「私」が消滅するけど

そのものは『在る』状態となる

 

それが悟りです

 

もう苦に煩わされる「私」

が存在していません

 

苦の終了

ということになります

 

 

激流は

誰にでも起こるものではありません

 

葛藤や苦は誰にでも起こりますが

本物の激流は

簡単には起こりません

 

 

人はいろいろな思いに囲まれて

日常を過ごしています

 

今までの経験や

それまでの思い

こうなるであろうという予想

こうありたいという願望など

(これをまとめて「私」の思い

とします)

 

実はこれらによって

今していることが楽にできています

 

今していることに

全力を注がなくてもできていますよね

 

反対に

全力を注いでしようとしても

実はできないでしょう

全力を注ぐことができない

 

これは思いに依存している状態なのですね

思いが無ければ行動できない

そのような状況が普通の状況です

 

そしてこの状況は

今が分散しています

 

今していることと

「私」の思い

 

これらに分散しているので

今にすべてを集中する

ということができていません

 

純粋なる集中

ではなく

集中している「人」

となっており

その「人」を自我と言います

 

自我はあれこれ考え

過去を思い

未来を考え

今に集中することを妨げます

 

もし今に100%集中できていたら

「私」の思いは発生しません

 

しかしそうではありませんよね

「私」の思いが発生している時点で

分散しているのです

 

そしてこの「私」の思いが

苦と言われるものです

 

余裕があるほど

苦が生まれやすいです

 

例えば

今、野生の動物に襲われた時

生きるために

この状況をどうしたらよいか

生きるために

に全力を注ぐと思います

 

その時、苦が発生する暇が無い

 

過去、こうだったとか

未来こうなるであろう

という思いが発生する暇が無く

 

今どうするか

に全力を注ぐと思います

 

しかし日常

このような危機にさらされることが無く

よって余裕があり

今にいなくても存在できるため

いろいろな「私」の思いが発生するのですね

 

「私」の思いが発生することは

実は幸せなことなのですね

 

 

日常生きていく中で

「私」が在れば

必ず起こるのが葛藤です

 

行動そのものになっている場合

苦は発生しませんが

行動をしている「人」の場合

苦が発生します

 

人=「私」が行動するのですが

この行動の源が

「私」の思いとなっています

 

すべき行動があった時

しかし「私」は面倒くさくて行動したくない

と思う時

葛藤が起こります

 

これは「私」が決心して行動しているからであり

一つの行動に

いろいろな段階が存在し

(思う・考える→決心する→行動する)

一つずつクリアして初めて

行動できる

これは

実はとても回りくどい方法なのですね

 

もし、行動そのものであれば

苦が発生する原因がないのですが

行動する人が存在し

思いが存在するから

行動する時

苦が発生するのです

 

 

日常の苦に気づき

それを克服したい

苦を無くしたい

 

こう思う人が

どれほどいるか

わかりませんが

 

この世に不可能は無い

 

まさしくその通りで

苦を無くしたいという思いが本当に発生すれば

苦を無くすことができる道が現れます

 

 

 

悟りの道には

人の数だけあり

本気で苦が無くなる状態を望めば

それを突破する智慧がわきます

 

よって悟るための方法も

人の数だけありますが

悟りの道を

まとめて言えば

人として生きることを極めた人

と言えますでしょうか

 

 

「私」が疑問に思ったことを 

ひとつづくつクリアし

全てをクリアすることが

悟りの道です

 

そして激流が必須なことは

全ての悟りに共通しており

最も重要で

失敗してはならないのが激流です

 

激流に飛び込んでしまったら

もう渡り切るしか

生き残る道はありません

 

または激流に飛び込んで

一度終了し

復活する

という方法もあります

 

復活はらぴ。が経験しており

生きることをあきらめなければ大丈夫です

 

一度終了して

再び生まれ変わって生きる

 

これは体を傷つけなかったからできたのであり

体を傷つけることは

決してしないでいただきたいと思います

 

体を傷つけることは禁止です

 

体が在れば

「私」の一部が無くなっても

記憶は微妙に残り

引き続き同じ問題を

クリアできるチャンスがあります

 

 

激流では

最終的には自我が洗い流されて

自我が無くなるのですが

途中であれば

一部が洗い流されるのみの結果となります

 

それを不十分として

欠けた自分で生きてくのか

そんなこと気にせず

更に問題と向き合っていくのか

選択の自由があります

 

あきらめなければ

道は必ず現れます

 

 

激流とは

今まで守ってくれていた思いをすべて捨て去り

ついに守るものが無くなった時

=「私」の思いという存在

のよりどころが無い状態で

存在することへ挑戦することです

 

人々は

いろいろな思いに囲まれて生きています

なぜその世界に生きていられるかというと

その世界に同調しており

自分自身も思いを発しているからです

 

それらは密接につながっており

そのおかげで一人と感じることなく

存在できています

 

孤独を感じる時

それは他ともつながっているからこそ感じるもので

繋がっていなければ

孤独と感じません

 

よって孤独も

どうすれば孤独でなくなるかを考えれば

それについての解決策が思い付き

クリアすることができるのです

 

「私」の問題・思いに向き合っていくと

その解決法が見つかり

それを実践しクリアすることができます

 

それを繰り返ししていくと

「私」の外に問題が無いことが分かります

 

「私」が問題としているからこそ

問題となっていることが多々あることが

わかります

 

そしてそれすらもクリアしていくと

ふと

この「私」とは何なのだ

というところまでたどり着きます

 

もう問題が無いのに

何とも言えない

何かに覆われているこの感覚

 

問題は無いのに

何か自由に動けない感覚

 

思いと行動が分離している感覚

に気づきます

 

これがまさしく

自我の存在の証明なのですが

そこに突き当たります

 

よってシンプルに

行動できることを

求めるようになります

 

何にも邪魔されない行動

 

これに向き合うには

行動することが大切です

 

行動すると

邪魔をする存在が必ず顔を出します

 

邪魔する存在は

意図して出てくるものではない

(=自覚できないから意図できない)

 

しかし行動し続けると

邪魔をする存在が現れるので

その邪魔をする存在に挑戦することができるのです

 

この行動が

精進というものです

 

もう目に見える障害は無いので

気づけない障害に

ついに向き合うこと

これが最終局面となります

 

 

激流とは

「私」の存在の根源に挑戦することです

 

それまで

人としての問題をクリアしてきたからこそ

純粋なる究極の疑問に

向き合えることとなります

 

日常の問題が解決できていない状態では

思いがいろいろなところに分散します

 

ある時は日常の問題

ある時は「私」の存在についての課題

 

このような状況では

「私」の根源について完璧に問うことができません

 

世界は「私」に応えます

 

問う思いの強さに比例した

答えを得ます

 

「私」の根源についての問題

に向き合う時間が

日常どれだけの割合を示すか

によって結果が違ってきます

 

中途半端なら

中途半端な答えしか得られません

 

らぴ。の場合

初めの頃の激流時は

100%に近かったけど

しかし完璧ではなかった

 

最後の激流は間違いなく100%です

 

 

よって「私」の根源へ挑戦するために

日常に煩わされていない

日常の問題をクリアした状況

日常の問題を問題と思わない状況

まで仕上げる必要があります

 

よって

出家は理にかなっています

 

日常に煩わされる状況から離れて

ただただ自分に向き合うことができるからです

(ただ現在、出家した人は

出家もどきがほとんどです)

 

 

「私」の行動を遮る存在が現れる状態になって

それに挑戦することができる状態

 

これが激流の時なのですが

それについて

コツを書きたいと思います

 

 

まず激流を起こせる人は

「私」がかなり発達していることに

間違いありません

反対に発達していないと

激流は起こせません

 

「私」を追い込むことができないからです

 

よって激流マニュアルは

「私」が発達している前提の内容となります

 

よってそれ以外の人は使用しないでください

 

「私」が発達しているとは

 

・「私」を完璧に律することができる

・「私」を常に保持できる

・集中力がずっと続く

 

集中について

疲れるという思いが出てくる状態は

まだまだ律することができていない状態です

 

徹底した「私」のコンロトールが必須ですし

そうで無ければ

本物の激流は起こすことができません

 

激流ですが

どういう時に起こるのかというと

徹底した行動に

邪魔をする存在に負けることなく

行動をし続けた時です

 

邪魔をする存在は

行動する「私」を邪魔することによって

存在を示すことができますので

存在をかけて邪魔してきます

 

そしてその邪魔する存在に負けずに

行動し続けると

邪魔する存在がだんだん薄れてきます

 

そうなると

行動する「私」も薄れてきます

 

なぜでしょうか

 

実は邪魔する存在とは

「私」でした

 

行動するのに思いが必須である「私」

 

そもそも

行動するのに思いが必要という

この流れ自体が

行動を邪魔していたのですね

 

よって邪魔する存在が薄れる

=「私」の行動も薄れる

ということになります

 

そこで再び「私」が行動する

という意志を強めます

そうすると邪魔する存在も強くなります

 

意図的に行動することで

葛藤を生み出すことになるのです

 

しかし行動することを選択し続ける

 

するとついに

行動が「私」を突きぬけ

「私」が消滅して行動のみが残るのです

 

突き抜ける

という表現はピッタリです

 

「私」の集中が

「私」を覆っていた

=守っていた思いを突き破り

覆いが破れたことによって

守られていた「私」が存在できなくなり

現象のみが残る

と表現できるからです

 

 

 

「私」という存在は

過去の思いや

未来を思うこと

あれこれ考えることによって存在しています

 

「私」とは自我とも言えるものであり

生まれた時にはありませんでした

 

しかし生きている時間が長くなると

いろいろな人の影響を受け

あれこれ考えたり

過去や未来の存在を思うようになり

「私」=自我がめばえてくるのですね

 

思うのも「私」

行動しているのも「私」という状態となります

 

そして行動を遮るのも「私」

 

行動を遮る存在を無くすには

「私」が無くなることが必要で

「私」に負けることなく行動し続ければ

「私」の遮りが弱くなってきます

 

しかし「私」が無くなれば

行動ができない

「私」による行動をしているからです

 

それでも「私」に負けず行動を続ける

「私」が消えそうになる

しかし行動をやめない

「私」が消えそうになる

それでも行動しつづける

 

しかしついに

行動し続けるためには

純粋なる行動になるしか道が無くなり

「私」は消滅する

 

 

ここでついに

「私」が無くても行動できる状態へ

変容するのです

 

思いに頼らない動作

「私」が無くてもできる状態

 

これは完璧な自由で

自由を超えた自由です

 

 

かつて行動を邪魔していた存在は

「私」というメカニズムでした

 

「私」が行動する時の流れ

その流れは必須であり

「私」と行動に時間差があります

 

行動そのものになると

時間差が無く

葛藤も生まれない

 

人として生きていた時は

思いがあって

それに頼った行動でした

 

いいとか悪いとかジャッジし

それによって

行動するかどうかを決める

または過去、未来を考え

行動を決める

 

これは純粋なる行動ではなく

行動する「私」があるからこそ

そしてほとんどの人がそうであるからこそ

今の世の中ができているのです

 

 

覚醒とは

そのような邪魔する存在から解放され

真我に目覚めた状態です

 

覚醒は

覚醒した人は存在せず

覚醒が在るのみです

 

 

 

 

激流マニュアル

 

 

悟りに激流は必須

 

激流を起こすためには

まず日常の問題をクリアすることが必要

 

クリアするとは

問題が存在していても

「私」にとって問題とならなくなった状態

として差し支えない

 

もしこの時点で問題が全く起こらないなら

それはそれでよいですよね

幸せに生きてください

 

 

 

実践開始

 

日常の問題が無くなった状態で

「私」に発生する問題に向き合い

それを解決するための行動を始める

 

行動とはどのようなものかというと

発生した問題を解決するために

どうすればよいかを考え

それを実践すること

 

集中して実践すればするほど

邪魔をする存在が現れるが

それが推進力となり

さらに進むことができる

 

集中力は

その問題を解決したい思いが強いほど

発揮される

 

日常、生きている人々にとって

日常も実践も大切なので

理想は日常を実践とすればよいが

それも難しいかもなので

工夫して両立させるとよいです

 

そして思いが強くなるほど

実践に少しづつシフトしていきます

 

日常を過ごしている流れの中で

シフトしてきたら

実践と日常の両立は簡単となっているでしょう

 

 

徐々に実践の効果が表れてきます

そしてそれに対抗する存在も強まってきます

 

抵抗が大きくなってきたら

正しく進んでいると判断し

さらに進みます

 

実践が極まる頃

同時に対抗する存在も最大になり

激流が起こります

 

どんなに邪魔があっても

決めた実践を決してやめてはなりません

 

やめると

激流は消え、しかし悟りも消える

 

続けると

「私」が危機にさらされる

 

しかしその危機とは

危機「感」であり

『存在』には関係ないのだが

「私」が行動している

自我がある状態では

「私」が無くなる恐怖から

危機感を感じる

 

それでも実践をやめない

決してやめない

 

これらは起きている間はずっと行う

途切れることなく行う

 

そうで無ければ

邪魔する存在が現れず

それを克服することができない

 

気分転換を

決してしてはいけない

気分転換は最大の悪魔です

 

もしその誘惑に乗ってしまったら

スタート地点にあっという間に戻ってしまう

 

寝る前にリラックス

決してしてはいけない

 

落ち着くこと

決してしてはいけない

 

ストレスは最大の導師です

ストレス発散

決してしてはいけない

 

 

 

激流での心がけ

 

実践を緩めることにより

激流もゆるくなってくる

精進する者であれば

決して緩めてはいけない

 

本物の激流が起こった時

もう二度とこの大きなチャンスには出会えない

これくらいの気持ちで挑むこと

 

激流は飛び込む必要は無く

いろいろな条件が揃うと

激流が直ちに起こります

 

まず激流では「私」を確立させてください

決して「私」を見失わないこと

 

見失いそうになったら

言葉で「私」を引き戻すこと

言葉の例:「私」「大丈夫」

 

「私」を保持したまま

実践を続ける

 

必ず実践自体ができなくなりそうになる時が来る

 

それは「私」に頼った実践であるためで

そうなるのは当然です

しかし更なる意志により

実践を続ける

 

「私」に頼った実践しか

この時点ではどうやってもわからないので

その「私」に頼った実践をやりきる

 

できなくなっても続ける

 

何が何でも続ける

と決心し

実践し続ける

 

 

激流にも段階があります

 

激流が起こるには

「私」の強さが必須で

「私」がすべてとなっているほどの状態が必要

 

なぜその状態が

激流という言葉で例えられるかというと

意図した実践より

「私」が意図しない状況が起こり

「私」がそれに巻き込まれ

気を抜くと溺れてしまうほどの

大きな恐怖と衝撃が起こるからです

 

そしてその状態において成功すると

自我が洗い流されるからです

=自我消滅

 

しかし一回の激流で

全てが洗い流されることは無く

多くは一部の消滅のみが起こります

 

一度一部が消滅=欠けると

次からは

激流自体が変容していきます

 

なぜなら

激流を起こす「私」が変容しているからです

 

 

 

各激流について

 

きっかけ

 

これは激流というよりは

衝撃です

 

これは意志による激流突破ではなく

悟りの道の始まりと言えるものですが

ここで紹介します

(この時は上記に書かれている

激流での心がけの内容はあまり当てはまりません)

 

「私」が否定されるような衝撃が起こった時

それまでの普通が普通でなくなることがあります

 

その衝撃の片鱗は

「私」という存在に残り

それを解決するには

「私」について解決するしかない

という状況となり

二度と道がそれることはありません

 

ここで

悟りの道は確定です

(この状態の人は多くいます)

 

あきらめなければ、ですよ

 

あきらめないとは

生きることをやめない

ということです

 

「私」という存在をどんな時も保持し

存在すること

これを生きることとして実践していくこととなります

 

何かにもう誤魔化されることは無いし

誤魔化すことができない

 

もう道が確定であり

悟ることでしか解決できない問題へと

向かっていくこととなります

 

よって人生における衝撃は

大きなチャンスとなります

 

 

 

第一弾

 

第一弾の激流は

体を使って起こすことをお勧めします

 

これを選択した時点で

体を保持した状態での悟りの道を

選択していることとなるからです

 

精神のみではなく

体もそれに合わせる道を選択すると

悟った後も体の存在と共に在ることができますので

体の鍛錬もしましょう

 

一般的に言われている

気とかチャクラとか

何でもよいです

 

これらは大元は同じですので

どれかひとつでもいいし

どれでも試してみるとよいです

 

しかしどれでもいいので

結果を出してください

 

体を使った精進を行い

体の余分なものをそぎ落としていきます

 

もしかしたら

体調というものが悪くなるかもしれませんが

それは次の道へと繋がります

 

体調が悪ければ

それをどうにかしたい

と思うようになりますよね

 

そして体調と「私」の存在は別であり

体調が「私」に影響を与えることはできない

というスタンスを取ります

 

ちなみに必要であれば

病院に行くことが大切です

 

体調により

もし実践ができなくなったら

体を使った実践をすぐに終了し

精神面へとシフトしていきます

(=「私」と向き合う実践)

体については無理しないでください

 

もし体調が悪くても

実践を続けることができるなら

引き続き続けます

 

どの時も

ポイントは

「私」を保持し続ける

ということです

 

 

第一弾の激流は「私」と体、丸ごとであり

最もわけわからないものです

 

激流での心がけ

を適用します

 

この激流は

「私」が意図しない状況へ

追い込まれるため

わけがわかりません

 

今まで「私」が決心して行動していたのに

決心することなく起こる世界は

未知であり恐怖でしかない

 

日常

普通に「私」が決心して行動できていることが

何と幸せなことなんだろう

とわかります

これは思いに包まれているからこその状態です

「私」の思いがコロコロ変わっている状況ですので

いろんな状況が存在していても

それに気づけないのです

 

 

激流では行動・実践に集中している状況により

「私」が意図しない状況が

勝手にやってくる

という経験をダイレクトにします

(日常でもそれは起こっていますが

思いに覆われているため

気づくことができていません)

 

そしてそれが「私」を強烈に覆ってくる

 

「私」の意図は行動することなのに

なぜわけわからないものが発生するのか

 

「私」の意図により

意図以外のものが発生する

という経験をします

 

それにより「私」が消えそうに何度もなりますが

その都度「私」を引き戻します

 

これは何度もありますが

実践をやめません

それにはかなりの精神力が必要です

 

そのまま実践を続けていると

ついに

ボロボロになった「私」の一部

が残っている状態となるのでした

 

しばらくは

何の志も無くなって

ただ在る状態が続くかもしれませんが

これはまだまだですよ

 

悟ればめちゃくちゃすっきりしますから

単なる在る状態になったように見えても

まだまだです

 

よってボロボロになった状態の先がありますから

時間がかかってもよいので

立ち上がりましょう

 

その残った「私」が立ち上がります

いつの時も

生きることをやめないこと

 

これを忘れてはいけません

 

 

 

生きることを続ければ

最後に「私」という存在のテーマが明らかになります

 

生きましょう

 

あきらめることなく生きることを続けていくと

完璧なタイミングで

チャンスに出会います

 

このチャンスは

それまでの生き方にリンクしていますから

必ずわかるし

「私」でなければわかりません

 

 

 

第二弾

 

 

第二弾の激流は

ついにそれしか問題が無い

という状況になって初めて

起こすことができます

 

起こす、という言い方は

割と的を射ています

 

この時点になると

「私」の意志は研ぎ澄まされており

一つの力強い集中力となります

 

もう他に問題が無いので

分散しません

 

もし集中力が分散するようであるなら

まだ最終激流ではありませんが

次につながりますから続けます

 

らぴ。は激流は2回でしたが

もしかしたらもう少し多い人もいるかもです

 

しかし無駄なことはありませんので

どの時も

真剣に向き合って進みましょう

 

 

第二弾は

邪魔する存在=覆われているものが

とても薄くなっており

真我の光は届いていますが

真我に溶け込んでいない状況です

 

そして薄い弾力性のある膜なので

押しやっても簡単に破壊することはできず

かなりの集中力が必要です

 

鋭い先で破らなければなりません

完璧な集中力が必要です

 

しかしこの時点で

大いなる集中力は発揮できる状態となっているはずです

 

だからあきらめることなく

突き進みましょう

 

この時に

「激流での心がけ」は必要ですが

わけわからない状態はありません

 

ただし、わかることもありません

 

そういう状態の中

ただただ「私」の意志を持続させるのみです

 

当然気分転換はご法度

精進のみに生きる

と言っても過言ではない状態となりますし

それができる状態となっているはずです

 

 

 

もっとも危険なのは

第一弾の激流

初激流です

 

ここで

それまでに

どれだけ「私」を鍛えられていたか

がわかります

 

どんな時も「私」を保持し

実践してください

 

どんな時も、です

 

 

 

 

自我は悪いものではありません

それは意志となり

強力な力となります

 

人として生きるとは

「私」を生きること

自我を生きることです

 

「私」を精一杯生きることによってしか

生じない激流は

人でしか突破できません

 

人として「私」が生きることとは

生きるそのものではなく

「私」が考え決心し行動することです

 

これは誰もが普通にしていることです

 

これが地球の存在です

 

 

 

では地球以外の高度と言われている存在は

どうなのでしょうか?

 

悟っている状態とは

言い難いかもですね

 

これについては今回は

書くのを控えときます!

 

@(*・ω・*)ポッ

 

 

余談ですが

悟りが自我の消滅であり

そして「私」はいない状態

と定義し

 

頭を空っぽにしてみたり

ぼーっとしてみたりすることは

意味が無く

逆効果です

 

この記事に書いた通り

精一杯生きた結果

自我が消滅します

 

それ以外は無く

簡単に悟る方法なんてないので

お気を付けください

 

ぼーっとして

何か啓示を受けた気がする時

それはあまりよくないです

 

悟った気になって

道が終了します

 

らぴ。は道の途中

啓示を受けたことは全く無いし

どこかの高次の存在から

助言を得たことも全くありません

 

全く無い

 

よってぼーっとして

何かのメッセージを受けることは

悟りと全く関係ないので

気を付けてね

 

「私」の声のみを聞き続けて至りました

 

どうぞ自分を信じてね

 

啓示は必要ありませんよ

求めてはいけません

 

「私」以外の存在に

「私」を預けてはいけません

 

「私」が考え決心し行動する

 

これが苦の大元であるのですが

この苦に飛び込むことが

悟りの道です

 

 

ラピュタは「竜の巣」という巨大な雲の中に

存在していましたよね

雲を避けると

ラピュタに出会うことはできませんでした

( ̄▽ ̄)