らぴ。は

「幼い頃は無条件に幸せだった」

とよく表現してきました

 

幼い頃のその幸せな状態は

大人のらぴ。にとって

目指す状態となりました

 

 

らぴ。らしく表現できていたことの

何と幸せなことか

 

幼い頃は

自分の存在を疑うことなく

自分中心の世界で

輝いていました

 

すべては完璧だと思っていました

生きていることが喜びでした

 

そしてこれが普通だと思っていました

 

しかしある時

疑問が生じました

 

全てが簡単で

全てが楽しく

思いっきり自分を表現していたらぴ。でしたが

褒められることによって

これは普通のことではないのか?

と思うようになりました

 

ごく普通のことなら

らぴ。のことなんて気にならないし

目立つこともない

褒められる必要もない

何かに選ばれたりもしない

 

この辺りから

らぴ。は

自由な在り方よりも

誰かの期待に応えたい

という思いが大きくなってしまい

今までの自分の普通がどうだったかを忘れ

そうあろうとしても

うまくいかなくなりました

 

簡単で楽しく完璧であることが普通だった時から

簡単で楽しく完璧であることが

普通ではなくなってきました

 

ここから自我が少しづつ芽生え始めました

 

そしてついに自我が目覚めた時

それは大いなる苦をもたらしました

 

自我はらぴ。に

どのように生きればよいか

について考えることを

何度も促してきました

 

それに従い

考えて考えて

ついに決まった生き方は

 

「自分の思いを捨てて

どんな時も喜んで対応しよう」

 

というものでした

(※この生き方に決めた理由は

ジャッジする自分が嫌だったことと

=これが苦の原因だと考えた

されて嬉しいことをしていくということと

完璧に善い人になりたかった、からです)

 

この生き方が決まると

そう生きると決心し

直ちにそのように生きました

 

精進の日々が始まりました

(当時は精進とは全く思っておらず

これが普通だったのですが(笑)

 

らぴ。の人生において

「自分の思いを捨てて」

と表現したように

自分の思いは斬り捨てるべきものでした

 

誰かを評価すること

何かを頼まれた時、嫌だと思うこと

自分の思いを主張すること、など

 

このように何かを思うことは

してはいけないことでした

 

そして常に喜んで対応していたため

ついには

それ以外の対応が

できなくなるほどになってしまいました

 

素がわからなくなり

ありのままがいいと言われても

どの状態がありのままなのか

分からなくなりました

 

もう喜んででしか対応できなくなった時

第一の激流が訪れます

 

それは

らぴ。が間違っている

と友達に言われた時のことでした

 

この生き方しかできなくなっていたので

それを否定されると

どう生きていいか

分からなくなりました

 

大げさに見えるかもですが

らぴ。の生きる道であり

生きることの指針

それが否定されたのです

 

これはらぴ。の存在を

全否定されたことと

等しいものでした

 

それくらい

喜んで

の生き方は

らぴ。自身となっていました

(※この生き方は

負の思いかららぴ。を守ってくれていて

ある意味幸せでした)

 

それが否定されたのでした

 

否定されたことにより

らぴ。は

日常の習慣でできていたことすら

できなくなるほどの

大きな衝撃を受けてしまいました

 

しばらく

どう生きていいかわからない

しかし考えることもできないほどの状態を

過ごしておりました

 

しかし生きることを

あきらめなかったため

ただ生きるだけの時間を過ごしながらも

いろいろゆっくり模索し

ついに自分の次の新しい生き方を決めました

 

 

どう生きていくか

という指針が必要で

指針を決めたら

徹底的にそのように生きていく

それがその頃のらぴ。でした

 

この頃のらぴ。の良い点は

別のものに逃げなかったことでした

 

常に自分と向き合い

どう生きていくかを考え

価値ある自分にどうすればなれるか

ということを最も優先していました

 

自分の在り方が最重要事項でした

 

だからこの頃は

世界がどうなっているかとか

全く興味が無く

誰かに興味を持つことも無く

ひたすら精進いたしました

 

 

そしてこのような変わった特性のらぴ。は

そのまま自分の生き方を貫き

眉間の消滅と頭頂の消滅により

ついに至ることとなります

 

 

らぴ。のかつての目標の

絶対的幸せ状態になることとは

らぴ。の幼い頃の状況に戻ることと同じでした

 

それが至ることによって

ほぼ叶いました

 

自我が消滅し

苦が無くなり

無条件の幸せ状態となりました

 

しかしそれでも

何かが微妙にありました

 

苦はないけど

体が微妙について来ていませんでした

 

体調がよくなくても

全くらぴ。の『存在』には問題ないのですが

体と共に在ることを決めたため

解決すべきことであるとしました

 

それがついにわかりました

 

 

らぴ。は社会で人として生きる時

自分を下げる生き方が

善いと思っていました

これはかつてもそうでしたし

今もそうだと思っていました

 

しかしそれは

らぴ。が

軽く扱われる状況を

引き起こしました

 

それでも

それによって相手の方が幸せならよいのですが

結局

らぴ。を軽く扱う人には問題があり

その人は幸せではないことが分かりました

 

その状況の第一の原因は

らぴ。が自分自身を下にしていたことですよね

 

この生き方は誰も幸せにならない

 

らぴ。が最近よく使う言葉に

「まだまだです」

「未熟者ですが」

があります

 

これらは日本人なら

控えめでよい言葉に聞こえる場合もあるかもですが

らぴ。が子供の頃

そう思うことがあっただろうか

と思いました

 

ないですね

 

へりくだることなく

ありのままでした

 

 

かつて

自分も周りも

完璧で幸せが普通だった時

周りも幸せなため

周りの幸せを願う必要が無く

自由にありのままに自分を表現していました

 

そこには自由な世界が存在し

ありのままですべてが完璧に幸せに見えたのでした

 

周りに遠慮することなく

らぴ。らしく幸せに生きること

 

そのような状態がよいです

 

そのような世界になるためにも

へりくだっていてはいけないのです

 

正々堂々とらぴ。で在ればよい

 

かつての子供の頃のように

 

子供の頃は完璧なことを疑わず

さらに誰もが完璧であるとし

よって自由にのびのびと表現でいていました

 

これが

子供の頃の無条件で幸せな状態であり

完璧でした

 

完璧である

 

そう、完璧なのです

 

 

自分自身を完璧であるとし

周りの人々も環境も

すべて完璧である

 

そう思うことが

誰かを不幸にするでしょうか

 

そうでは無く

むしろ全ての人が完璧な存在となるのですね

 

全ての人が

完璧に幸せで在る世界がよい

 

 

全ての人は

完璧で幸せで在ることが

普通である

 

そう宣言します

 

そうすると

体から抜けていたらぴ。が

ほどよく体に収まってくれるのでした

 

体のある状態

人である状態の時

適切な言葉を選ぶのは重要です

 

 

今までのおさらい

 

パーフェクトキーワード

 

「大丈夫」

 

「完璧」

 

 

今日もこれで行こう!

 

@(*・ω・*)ポッ

 

 

地球について

地球は完璧である

と宣言することが大切です

 

らぴ。が

地球の心配をすることは

余計なお世話なのです

 

それよりも

地球は完璧である

と宣言すること

 

それが地球の完璧さを

認めることになり

そう成るのです

 

完璧だ

そう宣言します

 

 

大切な人にもそう宣言しよう

 

心配することなく

完璧である

と宣言するのです

 

 

しかし助けが必要な場合もあります

その時は完璧な自分が判断し

必要な行動をしましょう

 

すべては完璧から始めましょう

 

 

余談ですが

らぴ。の転機はすべて

酷い人(!)がもたらしています

 

当時、思いを捨てていたので

酷い人とは気づけず

きちんとその人に対応していました(笑)

 

今は、酷い人だとわかるのですが

その人のおかげで

今に至ることができました

 

感謝ですねぇ