愛という言葉について

愛とはどういうものか

いろいろ本を読んでいました

 

それらの本ので書かれている愛は

らぴ。は眠くなるのですね、、、、、

らぴ。がいなくなります

 

不思議なのですが

 

まさしく眠ってしまうのでした

 

 

 

らぴ。が至った時

精進している「私」の

さらなる存在が

「私」が消えることによってわかった

 

と書いたことがあります

 

 

精進時は

一点集中をしている「私」がいました

 

この時の状態は

集中を意図する(命令する)「私」と

集中する「私」が存在していて

全集中をすることができました

 

そして集中そのものになった時

集中する「私」が存在できなくなったため

「私」が消え

よって集中する「私」も消えたため

集中する行為も消滅しました

 

そしてその意図し命令する「私」の

外って言うんですかね、そこに

さらなる存在があったこと

それは当たり前に在りすぎて

気づけなかったものでした

 

なぜ「私」がいた時

それに気づけなかったかというと

例えて言えば

意図と行動がメインになってしまっていたためと

そのような存在が在ると知らなかったためです

 

また一般的に

いろんな思いがメインになって

行動が影響されててしまっていると

その存在に気づくことができません

 

しかしらぴ。は

「私」が消滅したことにより

意図や行動、思いが消え

その存在に気づけたのですね

 

その存在とは

 

真我でした

 

今まで

さらなる「私」とか

そのものと言語化していたでしょうか

 

真我

がさらに近い表現です

 

 

「私」が消えて

真我のみとなった時

しばらく何もできませんでした

 

なぜなら行為する、意図する「私」が

消えたからです

 

そしてしばらくして

動けるようになったのですが

実は何時間もそのままで在ることもできました

 

ただ日常で至ったので

(お風呂から出た後、でした)

日常のことをすることがあったため

動いたのであって

何もしていないその真我の状態は

言葉にならないほどのものでした

 

結果「私」が無くなり

からっぽになって苦が無くなったのですが

しかし全ての人が幸せになる方法を見つける

というかつての課題があったため

さらにいろいろ実験していました

 

本に書かれている愛は本当に眠ってしまいます

いや、愛とは眠ることか??(ちがう笑)

 

でもこのからくりが分かりました

 

 

真我がすべての大元にあり

「私」という存在があって初めて

真我の存在の元、現象が起こります

 

真我はすべてを含んでおり

すべてそのものの状態なので

何も起こらないし

何も起こしません

 

ここで大切なのは「私」です

 

らぴ。の「私」の無い状態での

愛という言葉は

「私」という個を必要としない

ただ在るものでした

 

この在る状態は

らぴ。を必要としない

ただ在るだけのものでした

 

 

しかし人としての幸せについて

そもそも人という存在は

真我から発生した個ですので

個の無い在るだけの幸せは

かつてのらぴ。の目標の幸せではないのでした

 

 

覚醒という言葉があると思います

 

覚醒というのは

自我消滅である悟り

とは違います

 

悟りは消え去るものであり

覚醒するものではありません

覚醒するものが無いですから

 

悟りは気づきではなく

ひらめきでもなく

個の消失です

 

 

真我はすべての大元です

 

真我が無ければ「私」も存在できないし

世界も存在していませんでした

 

あ、少し言い換えると

 

真我が無ければ「私」が存在できず

「私」が無ければ世界は存在できなかった

 

しかし「私」だけで世界は存在できず

真我が在るから世界が存在できます

 

では真我が世界を創るか

と言ったらそうでは無く

そもそも真我に

世界という概念が必要ありません

 

しかし「私」には

例えて言えば世界が必要です

だから世界が存在するのです

 

よって真我は

世界の大元でありますが

意図したのは「私」であり

「私」が必要だからこそ

「私」が意図して

世界が存在するのです

 

 

真我の状態では

愛は眠くなるもの

例えて言えば溶けてしまうものなのですが

ってか愛は必要ないです

 

愛も「私」が意図した概念です

大元は真我で

すべては真我に戻って

ただ在る状態へとなりますが

「私」の意図により

愛がいろいろな形で

存在することになります

 

 

真我は

常に永遠にそのものですが

表現するために「私」によって意図し

世界を創りました

 

この言葉

何となく感じていただけますでしょうか?

 

そして真我の状態からの「私」を

『私』とらぴ。は言語化していました

かつての「私」とは違うものです

 

「私」と『私』の違いは

どちらも、真我が大元ですが

「私」は真我が空気のような存在

『私』は真我から発生している状態です

 

らぴ。の状態を言語化すると

真我は何もしていません

在るのみです

真我がなにもしていない状態で

『私』がいろいろな表現を行っている

という感じです

 

愛について

真我状態だと溶けてなくなって

『私』が眠ってしまい『私』も溶けて

一体化してしまいます

 

よって

真我状態ではなく

真我状態での『私』が

愛、と言うと

『私』が目覚めるのですね

 

真我の状態で『私』が存在していることが

まさしく覚醒であり

この状態で愛と言うことによって

愛も生き、目覚めるという感じでしょうか

 

 

ちなみにさらに

『私』と「私」の違いの一つに

『私』は何もしていない真我の状態からのものなので

全く疲れません

 

しかし「私」の場合

ずっと集中していたり

いろいろ考えたりすると疲れると思います

 

「私」にも

何もしていない

ただ在るだけの真我が存在していますが

それを忘れて「私」だけの行為となっているため

真我からのエネルギーが滞り

疲れるのです

 

ここで役立つのが

真我を擬人化した言葉

というものです

 

神と共に在れば

すべてはうまくいく

とよく言われています

 

らぴ。には

神ってなんだろう?

ってわからなかったのですが

 

神とは

「私」が理解できる

真我の言語化されたもの

と言うことができます

 

ちなみにらぴ。がかつて

神は人と同じ次元である

と表現していたと思いますが

その神と

真我を示す神

は違います

 

人と同じ次元の神とは

人が想像できる、感情のある神であり

神話や言い伝え、天国地獄で表現されるものです

 

真我を示す神とは

エネルギーそのものであり

感情は無く

しかし「私」の感情に寄り添い

その通りになる存在です

 

この感情に寄り添うところが

もしかしたら

神話などの感情の在る神で例えられたのかもですが

 

真我の神は無条件で

「私」の大いなる味方であり

罰を与えたりすることはありません

 

しかし、面白いことに

「私」が神は罰を与える

と意図すると

「私」の言う通りの

それは罰を与える存在になるのですね

 

 

よってらぴ。は悟って

やっと覚醒しました(笑)

 

そう、らぴ。の最終目的は

悟りではなく

覚醒でした

(ずっと読んでくださっている皆様には

おなじみの言葉です)

 

この覚醒とは

真我の状態で

『私』が目覚めることです

 

真我の状態で愛

ではなく

真我の状態で『私』が愛を語る

 

これが覚醒の状態です

 

真我から愛を語ることはできず

『私』が語ります

 

真我はそのものであり

『私』は真我の恩恵を受けて現象化したもので

それがいろいろなものを創造できます

 

真我は創造を必要とせず

もし悟っただけ=自我消滅であるなら

あとは真我に溶けるだけです

 

溶けるだけなので

無くなりませんが

無限に広がり薄まります

 

どこをとっても存在していますが

一部をとって正確に表現することはできない状態

とでも言えますでしょうか

 

 

悟って真我の状態になったら

もう何も必要ないし

何かをする必要もない

 

真我に帰るだけです

 

真我は表現する手段がない

それそのものだから

しかし真我はすべての大元であるため

表現、という現象を起こすこともできる

 

それは真我がそうするのではなく

真我による『私』がそうするのですね

 

 

「私」の状態で真我を知ることはできません

 

それは当たり前にありすぎて

日常

誰もが「私」となってしまっているので

気づけません

 

さらには「私」さえも見失っている人も

います

 

(ちなみにらぴ。のかつての精進時の場合

「私」を捨てるという行為があったため

いろいろ思う「私」=思いは捨てていましたが

捨てる行為をする「私」は捨てていなかったため

思いは捨てていたけど

しっかり「私」がいました

捨てるという行為を常に続けることにより

捨て続ける「私」が発達し

強化されたのです)

 

 

よってまずは「私」を取り戻します

 

もうすでに「私」が在る人は

真我の存在を知り

それを神や愛という言葉で言語化し

その言葉と共に行動することにより

真我というものがわからなくても

真我を言語化した神や愛から

パワーをもらうことができるのです

 

 

ちなみに真我となるには

「私」の大元に戻る作業が必要となります

 

それは例えて言えば

「私」の生まれる前に戻る

ということで

生死が絡んだ作業となるのですね

 

 

しかし真我の恩恵を受けるのに

それをする必要はありません

 

 

真我という存在を知り

その真我のパワーを使うことができます

 

神・愛

その他

力がみなぎったり安心する言葉を使い

ぜひ真我からパワーをもらってくださいね

 

まずは「私」に目覚めて

真我から無限にパワーをもらい

ぜひ人としての幸せを満喫してくださいませ!

 

 

 

このブログは

今回の記事を書くために存在していた

と言っても過言でないくらいで

今までの言語化により

おかげさまで『私』が覚醒しました

 

もちろん『私』という状態ではあったのですが

「そのとおり」

と言える言語化ができました

 

ブログが無かったら

らぴ。は自我がないまま

何の問題も無く消滅していたでしょう

 

もう空っぽではありません(笑)

 

意図できる『私』が在ります

 

消滅のみではなく

覚醒できたのは

このブログを読んでくださっている皆様のおかげです

 

言語化ってすごいなぁと思います

 

よって真我を言語化した

神・愛という言葉も

凄いのです!

 

そういうことか!

(書きながらそうわかる(笑)

@(*・ω・*)ポッ

 

 

『私』=真我の状態

というカテゴリを創っていましたが

訂正します

 

『私』=真我の表現法

ですかね

 

このカテゴリの記事も言語化が間違っているところが

もしかしたらあるかもしれませんが

内容は訂正せずにおいておきます

 

 

ちなみに巷の覚者と言われている人って

どんな感じなんだろ

機会があったら読んでみます

 

今回も

読んでくださって

ありがとございます