よろしければ
お帰り『私』①・②
を先にごらんくださいませ!
らぴ。はどうしても
体にいない習慣があるみたいで
それが普通になっていました
よって『在る』状態は
今までの習慣の名残のために
むずむずするのですね
今まで「私」を捨てるのが当たり前で
それが「私」の状態
と体が覚えていました
そしてかつての
喜んで
も
幸せな気持ちでいる
も
「私」が無い状態だったので
喜んで、幸せという感覚はありましたが
(※これについて、最後に追記があります)
『在る』
はさらなる幸せをもたらしました
『在る』は
幸せの感情が必要ありません
感情を創造することなく
すでに心地よいのです
よって
誰もにとって
在る状態は
かけがえのない心地よい状態で在る
と言えます
らぴ。は
自分自身に問題があると考え
それを捨て続け
さらに喜んで行動し
時には目標を設定しそれをやり切りました
「私」を捨てていたため
「私」の感情に左右されず
徹底して行うことができました
そしてついに
問題が消滅しました
「私」が消滅したからです
すると「存在」も消滅したので
体の「存在」も必要なくなります
個を示す必要が無いからです
しかしらぴ。は
体の存在を必要としました
家族のためと
ブログを書くために
よって
「私」消滅~
なんて言ってらんないのです
よって『私』復活を行いました
これは日常においてでしか
できませんでした
たった一人の状態では
そもそも個を宣言する必要は無く
また個を示すことも無い
よって
たくさんの人・個が存在する社会は
「私」を示せる場なのですね
日常において
「私」であること
しかし思いがもう無いため
思いや意志の無いシンプルな存在
ただただ在る状態の『私』=『在る』
でしかできないのですが
その状態であることとしました
その流れは
お帰り『私』①・②
に書いています
そしてこの③です
『在る』は
体に満たされます
そこで思い出すことがありました
例えばかつて
「私」であった時
(=存在・思い・意志の在る状態)
=「私」の状態であった時
「私」と違う誰かに否定をされると
「私」が「私」を否定してしまう
ということが多々ありました
らぴ。の場合
「私」をはじいていました
(体の外に「私」という存在をはじく感じ
斬り捨て法に近いです)
そしてその時、何が存在したかというと
「私」ではなく
「するべきこと」
でした
そしてたくさんの積み重ねがあって
それを正しいこととしていくうちに
「私」は「私」を責め始めました
これが自我の覚醒です
するべきことがあって
それを「いやだなぁ」と思う「私」は
すべきことには不要だから
捨てるべきだ
「私」を捨てるので
「私」は無くなるのですが
「私」の存在の意味として
(本能的に存在は必要だとわかっていたのでしょう)
「私」がされたら嬉しい
「なんでも喜んで対応しよう」
と生きることを決めたのですね
「私」を捨てながら
「私」の価値を必要とする
いや、「私」の価値を必要とすることを
実践したからこそ
今も存在しているのですが
そのような実践を始めた
ということです
もし喜んで生きることが
生き方に設定していなかったら
らぴ。は生きていく意味を
さらに見いだすことなく
「私」が無くなった
指針の無いゾンビのようになっていたかもしれません
しかし
運よく(ほんと紙一重だと思います)
生きる指針を持つことをできたので
今が在ります
よって善なる指針は必須ですね
「私」を捨てるだけの生き方なら
最後は
すべて無くなって終わり
これがハッピーエンドとなってしまいます
目的達成です
しかしこれは
らぴ。の求める状態
ではありません
こうやってらぴ。の考えと共に
らぴ。の生き方を全うしました
そしてさらに「私」が無くなっても
残った指針
全ての人が幸せに生きること
があったため
今に至ります
「私」が消滅したら
意志も思いも無いので
幸せに生きることなんて
まったく必要なくなるのですが
幸せに生きること
という指針がありました
言葉はすごいです
言葉は魔法の言葉となり
指針として残るのです
そして幸せに生きる
から
すべての人が幸せでありますように
へと変化していきます
対象が消えた状態は
全ての人も存在しえません
しかし
このかけがえのない体があることによって
示すことのできる体が
らぴ。にもありました
だから消滅した「私」は
指針によって
体に引き戻され
体と調和し始めます
先ほども書いたとおり
「私」を捨てていた名残
のある体は
『在る』状態には調和しがたいものでした
しかしあきらめることなく
『在る』状態を続けると
涙が沢山出ました
実際、昨日は結構泣きました(笑)
泣くと緊張が解けますね
「私」を捨てようとして
緊張していた体が
とけました
そしてまさしく
体と『在る』が調和しました
その状態は
それまでの体の状態と
全く違うものでした
この安心感を超えた安心感
今までの習慣が
いかに体を酷使していたか
が分かりました
体を大切にしたい
と思っても
それまでの体の名残が
その大切にする状態を覚えていないため
どうしたらよいか試行錯誤でした
しかし『私』と調和した途端
あっという間に
大切にすることなく
大切にされた状態となりました
もうがんばることないのです
もうそれで完璧でした
さてこの状態で
伝えたいことがあります
全ての人と仲良くなりたい
という設定をしている人は
改善の余地ありです
「私」が判断し
「私」が心地よい人と
一緒にいることを選択することを
おすすめします
無条件の愛を降り注ぐ
これは「私」のすることではありません
存在がそうしてくれていますので
個の「私」がそれをする必要は無いし
それをしようとする場合
「私」を無視する行為
となります
よってこの崇高だと思われる行為は
実は愛からかけ離れています
(もし無条件の愛だと言って
それらしき行動をしてくる人がいる場合
その人が無条件の愛を
「私」にも求めてくるなら
要注意です
それは無条件ではない)
本物の愛はそれでは無いのです
(だかららぴ。は
一般的に言われている
与える愛というものが
微妙に理解できなかった)
愛とは在ることです
それだけで愛です
そして誰かに愛を送る必要は無い
ただただ在るだけで
もう愛の存在となっています
幼い子供は大切な人のために
たくさんの愛を振りまいているように見えますが
正確に言うと
ふりまいているのではなく
愛の存在
それのみです
しかし社会が世界が
そのままであることを
だめだと言うことが多々あるのです
今の時代はそうでは無いかもですが
昔は根性論とか普通でした
実際、努力はよいですよ
しかしまずは
在る状態からの行動でなければ
そのうち苦となってきます
なぜなら「私」を否定するほどの
緊張状態は
「私」の存在を否定し
それは生きる意味を失いそうになるからです
しかし在る状態は
すでに在りますので
在る理由も必要ないし
そのままで在りますので
何の問題もありません
在るは完璧です
問題が発生するのは
ありのままの「私」であることを否定された時
するべきことがメインになって
「私」の存在がぞんざいな扱いとなってしまう時です
生きるのは「私」です
その「私」が否定されて
どう生きろというのでしょうか
まずは「私」の尊重があっての
ものでなければなりません
目標を決めてそれを達成するために
「私」が頑張ることは素晴らしいです
らぴ。のように
「私」を捨てて
理想の姿だけを思い描き
「私」を捨てて行動する
こんなことほんとにしちゃいけません
らぴ。は運よく
「私」は無いながらも
存在の重要性は知っていたためか
存在=意志として
強い意志をもって行動し続けることができました
そして激流では反対に
「私」を保つために全力を注いでいます
この違いですが
「私」を捨てての行動時は
「喜んで」の指針がありました
それが「私」の代わりとなりました
一点集中時は
一点集中するのが「私」であったため
この「私」が消えてしまっては
集中することはできないので
「私」を何があっても保って集中する
という指針のもと実践した
という感じでしょうか
在る状態で感じるものは
正しいことが多いです
もし在る状態で
嫌だと感じるなら
そこから逃げること
全ての人に同じように対応しよう
なんて必要ないこと
これは「私」にとってもよくないし
相手にとっても
気づきを無くしてしまう行動となります
よって「私」の状態で
嫌だと思うことはしないこと
これにより「私」に必要なものが残り
「私」を安心が取り囲みます
このメッセージは
身近な大切な人に最も伝えたい言葉です
どうぞ、ブログを読んでくださっている
かけがえのない皆様にも
ぜひお伝えしたいと思います
各個が「私」を
責任もって自由に表現しているため
お互いを尊重するためにも
「私」が必要ないと思えば
必要ないものであり
離れてよいのです
困難
創る必要ありません
らぴ。は真理を知るために挑戦として
困難を創り出し
それをどうやったら克服できるか
挑戦しました
これは「私」を捨てながらも
指針をしっかり保ったため
やり遂げることができました
これまた大切な人に
経験してほしくないものです
これらはらぴ。がいろいろ
限界以上に精進してわかったため
もう誰もしなくてよいですよ
どうぞ無条件に
在る状態で
幸せで在ってください
そして今
らぴ。の日常は
『在る』を体現するのみです
それでしか
『在る』ことの調和ある状態を
示すことができません
そこから出た言葉も
『在る』には適いませんが
それでも
もしかつてのらぴ。のような人がいて
今がんばっている人がいるなら
がんばる人のそばで在りましょう
『在る』は最高の瞑想となります
それ自体が瞑想となる
日常で「私」の状態で過ごすこと
こんなに素晴らしいことはありません
そして人には思いがあります
在る状態で思いを発することは
素晴らしい結果をもたらします
@(*・ω・*)ポッ
かつての
喜んで
も
幸せな気持ちでいる
も
「私」が無い状態だったので
喜んで、幸せという感覚はありましたが
これについての追記ですが
面白いことに気付きました
「私」を捨てて喜んで何でもしよう
という時の
喜んで、についてですが
「私」を捨てたら
喜ぶこと、出来ませんよね
この時の喜んで!は
感情ではなく
体の動きで示していました
具体的に言うと
心から喜んで
という指針であったので
胸のあたりから
上へあがる感覚をもって
「喜んで」を表現しました
心から湧き上がる思い
という感じでしょうか
下から上へ意識をあげて
「喜んで!」と感情ではなく
体で表現していました
だから「私」が消滅しても
体の名残により
=上昇するものにより
かつての喜んで、を体現することができます
感情を用いなかったことによって
今でも名残として残ることができたのですね
幸せな気持ちも
感情ではなく
体の表現でした
そして両方とも
共通していましたが
「私」が在るものではありませんでした
だからこそ
その反対の
『在る』状態は
体がすぐにはなじめなかったのです
それまで空っぽでしたから
そしてただただ
例えて言えば氣の動きで
感情を表現していたという感じでした
もう今は
喜んで・幸せ
というものが必要ありません
『在る』のみ
ただそうで『在る』ことです
余談
はっとすること
これって少し「私」が飛び出しています
そして再び「私」に戻る
このような行ったり来たりを
全ての人がしています
どうぞ必ず
「私」に帰ってきてください
彷徨うことなく
迷うことなく
「私」ですよ