聖書にあるらしい
私はある
英語だと
I Am Who I Am
だそうなのですが
これって悟った状態
を表現しているものではないです
では何を言っているのか
実践の内容です
どんな時も「私」の存在を維持し
進み続ける方法です
かつての「私」もそうでした
まだ実践者だった頃です
私はある
と言っている人は
まだ自我=「私」があります
私はあるという方法は
「私」の存在に気づき
その状態を保つこと
と紹介されていることがあります
(保つ必要がある時点で実践内容ですね)
う~ん、この方法は微妙です
それでは激流が起こらないから
(釈迦曰く、激流は必須なはず)
かつてのらぴ。であるなら
「私」を保った状態で
自分の決めたことをやり抜く
決めたことを邪魔する何かがあっても
それに負けず
ひたすら「私」が進む
そうすると必ず
「私」が消えそうになる時があります
(実践自体になってしまうから)
それでもさらに「私」を維持して
実践し続けると
実践が終わる時が来る、出来なくなる
=「私」の消滅という感じです
「私」を極めれば
そもそも「私」はいないのです
「私」を自覚し
「私」を保ち続ける方法を
勧めているのは謎です
今のらぴ。の状態の
『在る』は
私はいません
そう、悟った後のさらなる状態です
『在る』
そうでなければ
体も消滅するでしょう
なぜなら
意志や想いがない状態で
何を体に指針として
与えることができるでしょか
無いですね
ただただ『在る』
そもそも悟りとは
例えて言えば苦からの解放ですから
悟りが最高の状態とはいいがたいです
苦から解放された
苦しむ私はいない
で?(笑)
確かにその状態は
かつての「私」の望む状態でありました
何にも邪魔されない状態
あるがままの状態
で?(笑)
いろんな心があるからこそ
創造する力もあり
芸術や偉大な作品は
心の表現であることが多いと思います
人々は素晴らしい作品を
残してきたのです
そう、悟ったら
生み出すものは無い
(だから輪廻もないと言われる
カルマが発生しない)
悟りは無害であるが
何も生み出しません
そして後は体が消えるだけ
そんなの望んでいません~~!!
よって悟りもまだまだ
道の途中ということです
悟りによって
何にも邪魔されない
『在る』状態でいられるので
悟りはまだ途中経過の状態です
悟ってもなお残る体
何が体を創り上げたのか
その根源と成るのが
『私』の道なき道です
ちなみに人々は
体になにを許可していますでしょうか
遺伝子レベルで
許可しているものがあります
ここでは内容は明かしませんが
その遺伝子レベルに
例えて言えば挑戦します
そのルールがあるなら
そのルールに『私』がなればよいのだ
なんてね(笑)
『在る』を極めます
『在る』だけで楽しいので
それだけでもよいのですけど(笑)
道なき道
と言っているのは
そのためです
そこから続く道は無い
ある意味ゴールですが
ゴールを超えたその先に
無いけど行こう
行くことなく
想像も思想も常識も
誰かの言葉も
そして自分の言葉も超えた状態
@(*・ω・*)ポッ
ちなみに
真我を目覚めさせる
真我が目覚める
のような「目覚める」という表現
をしている方もいるようですが
いらないものをすべてそぎ落とし
消して消して消しまくり
全てが存在できない状態のさらなる先に
残ったもの
それが例えて言えば真我だと
らぴ。は表現するかな
かつて「覚醒」という言葉を
「私」も使っていましたが
微妙に違和感があります
余談
らぴ。はある意味
かつての幸せな子供の頃の
その状態でありつつ在ります
子供の頃の幸せが
「そういうことか」
くらいは言えるかな
それは『在る』状態
自我が無い『在る』状態です
子供の頃の幸せで純粋な時に
「私はある!」
なんて宣言、全く必要ないですよね
そうただ『在る』のみなのです
皆様もますます幸せで在りますように
さらにそれを超えて在りますように